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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  神馬の宿る霊山・厩嶽山  ー
 
 馬頭観音信仰の伝承地

 慧日寺の北東約4.5キロ、磐梯山の西側に厩嶽山(うまやさん)がある。山頂の平坦部が南に細長く突き出て、山麓(ろく)から見上げるその形容はまさに馬の鞍(くら)そのものである。行基が開山したとの伝承も残り、山頂やや下方には馬頭観音堂があって、会津盆地の馬頭観音信仰の本山として知られている。「絹本著色恵日寺絵図(けんぽんちゃくしょくえにちじえず)」にも山上に正面三間の2棟の建物が描かれ、「馬頭観音」の名称も付記されている。後方建物の柱間には左右2体の尊像も描かれており、当時すでに篤(あつ)い信仰を集めていたことが窺(うかが)える。

 山上に祀(まつ)られていた馬頭観音坐像は、観音堂の荒廃に伴って、現在山下の恵日寺本堂に移されている。この尊像は像高50センチほどの寄せ木造りで、三面八臂(さんめんはっぴ)。本面は炎髪(えんぱつ)で、頭上に馬頭をいただく。三目を配し、口を開け、上歯・舌・下歯を表した忿怒(ふんぬ)の形相は、玉眼も併せて見る者を圧倒する。作風により、鎌倉時代後期の造像と推定されており、「恵日寺絵図」の馬頭観音堂創建を知る手がかりともなりそうだ。

 馬頭観音は六観音(聖・千手・馬頭・十一面・准胝(じゅんてい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)・如意輪)の一つであるが、馬頭をいただく忿怒の形相からか、わが国では当初他の変化観音に比してあまり信仰が盛んではなかったようだ。南都大安寺に伝わる忿怒像が、奈良時代に制作された馬頭観音像とされる僅わずかな違例として知られる程度であり、また、平安時代に成立した西国三十三所でも、馬頭観音を本尊としているのは丹後松尾寺が唯一であるということなどもそのことを裏付けている。

 その半面、近世に至ると、六道の畜生道を救うという六観音信仰とその形像によって、牛馬の守護神として広く崇(あが)められるようになる。一方古来より、馬が神霊の乗り物であるという観念がわが国にあった。霊峰磐梯山に御座す磐梯明神は、山の神であると同時に田の神であって、春には農耕神として里に降臨する。そのため、磐梯山の西方に並び立つ厩嶽山は、磐梯明神の神馬が控えるに最適の立地であったに違いない。磐梯明神を山下に遷座(せんざ)する際に、厩嶽山がその中継地となったという伝承も、そうした神馬伝説から派生したのであろう。

 これには逆の伝統思想もある。会津盆地の霊魂は、一度厩嶽山を経由して磐梯山へと移り、天上へと昇華するというものだ。天馬が衆生の魂を乗せ、天への梯子(はしご)である磐梯山へ運ぶ。いずれも馬は霊界とこの世を結ぶ神的動物というわれわれの深層心理に刻まれた思想だ。民間における馬頭観音信仰は、こうした古来の神馬思想と仏教の馬頭観音が習合したものであるといわれ、各地でさまざまな形態を残す。例えば厩嶽山では、当歳子(とうねんこ)と呼ばれる新馬の無事を祈って、子馬を連れた登拝が盛んに行われた。盛時には各地で厩嶽山講が組まれ、山上に至る参道には、西国三十三所の観音を刻んだ石仏も奉納されている。

 また、いつしか子どもの無病息災の祈願所にもなり、「二(ふた)つ児(ご)参り」と呼ばれる行事にも派生していった。幼子(おさなご)を背負って山上の観音堂に詣でたというのは、年配のご婦人方から経験談としてしばしば耳にすることで、ごく最近まで行われていたようだ。


 17日に「厩嶽山祭り」
 残念ながら、機械化に伴って牛馬はここ3〜40年で急速に姿を消し、いつしか登拝の伝統も途絶えていった。地元ではこの貴重な伝統行事を継承しようと、7年ほど前から有志によって「厩嶽山祭り」が復興され、毎年6月第3日曜日に、白馬を先達とした登拝が行われるようになった。登山ブームと相まって、毎回県外も含めた多くの善男善女で賑(にぎ)わいを呈している。17日は当日受け付けも可能で、山上では笹ささもちやお神酒が振る舞われるそうだ。

 (磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 10 】

霊峰磐梯山と並びそびえる厩嶽山

馬頭観音坐像(恵日寺蔵)

【2007年6月13日付】
 

 

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