minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  ”療養施設”の湯屋  ー
 
 病気治癒と延命の霊地

 中世慧日寺を特徴づける伽藍(がらん)の1つでもある「湯屋」について紹介しよう。「絹本著色恵日寺絵図(けんぽんちゃくしょくえにちじえず)」を見ると、正面5間の建物で柱間には大きな湯釜も描かれている。参道正面の左側、仁王堂の前方西側にあることからみても、主要伽藍の1つであったことが理解できる。この辺りには実際に水神が祀られていたり、個人宅ではあるが戦後しばらくまで湧水(ゆうすい)を用いて湯を沸かしていた(地元では「しぼゆ」と呼んでいる)という話も聞いている。

 よくよく「絵図」を観察すると、伽藍域の正面を流れ下る花川が「湯屋」の東隅をかすめるように描かれていて、この水利を用いたであろうことは疑いない。花川とは、元来仏に供養する華水(はなみず)を引水したところからそう呼ばれるようになった清流であり、この聖水を「湯屋」に用いるためには、理にかなった立地にあった。ところで、湯屋だからといって、直接この釜に浸(つ)かったわけではない。僧侶の釜茹(ゆで)では、因果応報、地獄の鬼もあがったりだ。

 湯船にどっぷり浸かるといった入浴の形が一般化するのは近世も後期以降のことであって、それまでは、蒸気を浴びる「風呂」が一般的であり、これとは別に「湯」という行為もあったがせいぜいお湯を浴びる程度であった。

 では、慧日寺の湯屋は具体的にどのような施設であったのであろうか。この「絵図」から詳細を読み取ることはなかなかに難しいので、絵巻物や現存する建物を参考にして探ってみよう。

 絵巻物では、国宝の「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」(1299年)、重文の「慕帰絵詞(ぼきえことば)」(14世紀)・「是害房絵巻(ぜがいぼうえまき)」(1308年)などが有名で、現存の遺構では、古いもので東大寺「大湯屋」(1239年、1408年改造)や興福寺「大湯屋」(15世紀前半)がある。その他、京都東福寺の「浴室」も中世建築で知られている。このうち「慕帰絵詞」は、釜で沸かした湯の蒸気を建物の中に送り込むもので、いわば蒸し風呂方式だ。

 これに対し、「是害房絵巻」では、釜で沸かした湯を木の樋(とい)で湯船に送る取り湯の形式で描かれている。遺構でも、東福寺は蒸し風呂、東大寺・興福寺などは取り湯方式になっている。古代寺院の資材帳などに見られる「浴堂(よくどう)」や「温室(うんじつ)」の表現は、そうした送湯方式の違いによって呼び分けられたのであろう。

 その半面、内部構造については大抵が前室と浴室、釜屋の単純な三室構造が一般的であることから、慧日寺の場合もそうした造りであったと考えるのが穏当なところだ。湯釜が右側から二間目の柱間に見え、その隣二間には長押とは異なる床張りのような表現が見られることからすれば、焚き口は東側で、その奥(西側)に浴室・前室が連なっていたのであろう。

 さて、こうした湯屋の性格であるが、衛生面というより、僧侶が潔斎(けっさい)を行う場として利用されるのが本来の目的であった。それ故、清浄な湯屋が僧集団の重要な合議の場として利用されることもしばしばであったという。慧日寺の「湯屋」も、創建当初の目的はそうした性格であったのであろうが、その一方で、湯釜までを描いた背景には、「絵図」製作当時すでに寺辺の住民のみならず、広く有縁の俗人にも開放されていたことを説き示しているに違いない。

 病人や貧窮者に湯を施す「湯浴(ゆあ)み」は、中世の大寺院が行っていた大きな施行(せぎょう)の一つでもあり、なにより世俗の人々とっては現実的な治療効能を体感できる、いわば療養施設でもあった。本尊の薬師信仰とも相まって、病気の療養・延命の霊地として、慧日寺には多くの縁者が集ったことであろう。衛生施設の未熟な中世にあって、慧日寺が病院機能をも兼ね備えていたことを示す特徴的な建物である。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 14 】

現存最古の湯屋建築・東大寺の大湯屋

「絹本著色恵日寺絵図」に描かれた湯屋

【2007年7月11日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29
ネットワーク上の著作権(日本新聞協会)
国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) 2001-2004 THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN