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噴火の実相をスケッチ
この3連休、行楽の予定を立てたものの、連日の雨と7月にはまれな大型台風、さらには地震も相まって、計画変更を余儀なくされた方々も少なくなかろう。明治21(1888)年7月15日も日曜日だった。梅雨時ではあったが、当日は朝からの快晴。磐梯山周辺では、1週間ほど前から弱い地震が続いており、その日も午前7時ごろには遠雷のような地響きと鳴動があった。7時半ごろには強い地震があって、水田の水が畦(あぜ)を越さんばかりに波立ったという。その後7時45分、磐梯山は水蒸気爆発を起こし、噴煙が陽光を遮(さえぎ)る勢いで立ち上った。
明治の大噴火については、今さら詳述する必要もないが、来年でもう120年になる。慧日寺の傍らに建つ修験寺、不動院龍宝寺を司った旧家大伴家には、当日の噴火を時系列的にスケッチした「磐梯山噴火 磐梯村ヨリ望ム写真」が残る。当時の当主大伴美章(神職)が描いたとされる4つのカットで、当館で借用展示をしている。
明治の噴火では、土石流や泥流によって、主に北山麓(さんろく)や東山麓に大きな被害が出たのに対し、磐梯村のあった西側では村の東部で火山灰や小石が降った程度でほとんど被害がなかった。こうしたスケッチや写真を冷静に記録することができたのも、その立地環境が幸いしてのことだ。
1カット目は午前7時44分。黒煙が立ち上る様子が描かれている。日本標準時が施行されるようになったのがちょうどこの年からであり、付記された時刻によってその状況を克明に辿(たど)ることができる。続いてはちょうど30分後の8時14分。猛炎は山体の3倍以上にも及ぶ高さまでもうもうと噴き上がっている。黒煙からのぞく赤い太陽や四方に飛び散る噴石が描かれた様子は、数ある磐梯山噴火のスケッチの中でも貴重な1枚ではなかろうか。3カット目は8時50分。噴火から約1時間、噴出は峠を越したようで、舞い上がった噴煙から主峰大磐梯の東側へ火山灰が降り注いでいる状況が分かる。最後は9時10分。沈静に向かったが、噴煙が2カ所から噴出している様子が明確に見て取れる。
これらを見て気付くことは、小磐梯の山体が少なくとも噴火が始まってから1時間半の間存在していたことである。地元にはこうしたスケッチや写真の記録があったにもかかわらず、明治の噴火では、激しい水蒸気爆発によって山体が一瞬にして吹き飛んだという俗説が長い間信じられてきた。正確な情報が伝わらないまま、誇張して作られた版画や錦絵の印象があまりにも強かったからであろう。小磐梯は崩壊によって消失したもので、巨岩が飛び交ったというような現象は無かったのが実際のところだ。崩壊は地震などによって現在も少なからず起こっている。
ところで、当日噴火口に最も近い「中の湯温泉」から奇跡的に生還した人物がいた。新潟県から湯治に訪れていた鶴巻浄賢その人である。彼は南蒲原郡井栗村(現三条市)来迎寺の住職で、けがをしながら昼ごろに磐梯村大寺の宿屋にたどり着き、医者の治療を受けている。19日には若松の病院へ入院し、21日に会津を発(た)って23日に無事帰村した。後日、研究者の依頼に応じて噴火の詳細を書簡で送っており、貴重な資料として学術雑誌などに取り上げられている。
同寺には「成相観世音霊験図」なるものがあって、噴石飛び交う中、浄賢が手を合わせて一心不乱に祈る様子が霊験あらたかに描かれていて、書簡と読み比べるとなかなかにおもしろい。その詳細については、地形学者で磐梯山噴火研究者として著名な米地文夫氏や、野口英世記念館の小桧山六郎氏の著に詳しいので、ぜひ参照されたい。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
【 15 】
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磐梯山噴火のスケッチ(大伴家蔵) |
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「新編会津風土記(写し)」に見る小磐梯(大伴家蔵) |
【2007年7月18日付】
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