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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  徳一の遺骨はいずこへ(下)  ー
 
 廟所にふさわしい層塔

 わが国においては、開山の墓塔が伽藍(がらん)の中に建てられることはなく、特別な信仰の対象として、そこから少し離れた場所に造営されるのが一般的である。一例を挙げると、室生寺の実質上の創建者で、一説には徳一の師ともいわれる興福寺二代別当修円の廟(びょう)は、金堂北側奥、国宝五重塔の東側にある。さらに後年真言勢力が進出すると、奥ノ院には弘法大師の御影堂(みえどう)が建立される。

 長年にわたり、慧日寺跡整備の指導に携わっていただいた東京女子大学名誉教授の大隅和雄氏(日本中世史)は、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)恵日寺絵図」中の金堂後方に建つ「根本堂(こんぽんどう)」が、開山徳一を祀まつった堂宇であった可能性を示唆している。根本堂というその名称から、一時天台宗の影響下にあったという見方もあるが、その背景には比叡山の「根本中堂」という、あまりにも広く知られた仏堂の存在があったからであろう。

 根本ということば自体は、時間的には起源や本元、空間的には中心、理念的には基礎や基本を意味するもので、根源とか大本を表す一般的なことばとして古代や中世には広く使用されていた。例えば、仏教の教義を論ずる際には、根本真実、根本智、根本識などのことばがよく用いられ、伽藍においても、高野山では中心の塔を根本大塔と呼ぶ。

 また、最澄のみならず、東密では空海も根本大師という。これらを例示して、大隅氏は「根本堂が、徳一の御廟とは別に、徳一の木像を安置する堂として建てられたと考えることはそれほど突飛(とっぴ)なことではないように思う」との考えを提示している。

 比叡山東塔の根本中堂は薬師如来を祀った中心仏堂である。「絵図」の場合、前方には金堂が建っており、同様の性格を持つ仏堂が並立していることになってしまう。とすれば「根本堂」が開山堂としての性格を持つ堂宇(どうう)であったことは、十分に考えられるところでもあろう。前回紹介した『恵日寺縁起』では、筑波から徳一の首を持ち帰った奇伝に続いて、徳一の忌日を筑波では11月8日に、恵日寺では翌9日に行うとある。湯川村勝常寺の徳一坐像に代表されるように、会津はもとより県内外に木像が残っていることからみても、師の遺徳を偲(しの)ぶ年忌的な仏事が各寺で行われていたことは間違いないであろう。何より、福島・茨城県域を中心に由緒の寺院は100カ寺近くにも上り、菩薩・大師とも称された背景からすれば、没後も篤あつい信仰があったはずだ。

 インドでは釈尊の死後(紀元前480年)、その遺体を火葬に付し、遺骨・遺灰を仏身に替えて礼拝するいわゆる舎利信仰が生まれた。当初は釈尊の身骨を8カ国に分かち、それぞれに仏塔(ストゥーパ)を建てたが、その後各国に数多(あまた)の分骨が行われたことは歴史が示す通りである。

 虎関師錬(こかんしれん)の撰(せん)によって、元亨2(1322)年に成立した『元亨釈書(げんこうしゃくし)』は、30巻からなるいわば日本仏教史の原典である。仏教の伝来から鎌倉時代末に至るまで、我が国における仏教の展開を総合的に記述したもので、このうち19巻までは400余人にも及ぶ僧俗の略伝を収録したものだ。数ある僧伝の中でも最も権威があるとされている。もちろん徳一も列記されており、それによれば「慧日寺に終る。全身壊れず」とある。我田引水ではないが、徳一廟の位置関係や仏塔を髣髴(ほうふつ)させる慧日寺の層塔が、やはり廟所としてふさわしいように思う。

 しかし、彼の遺功をもってすれば、後世ゆかりの寺院に分骨されたことがあったことは決して否定できず、慧日寺では首を持ち帰る話として派生していったのかもしれない。が、それをどこかと追求するのは野暮。東国の仏陀として、それぞれの地域での篤い信仰を見れば十分だろう。

 (磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 17 】

徳一廟の石塔が倒壊した際に見つかった土師器の甕=恵日寺所蔵

「絹本著色恵日寺絵図」の根本堂と徳一廟

【2007年8月1日付】
 

 

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