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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  古代仏堂の土壁(中)  ー
 
 白壁仏堂の確立と展開

 奈良県明日香村にある山田寺。大化の改新政府で右大臣となった、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の寺である。昭和51年から、奈良国立文化財研究所によって継続調査が行われその全容が解明されたが、昭和57年の発掘調査では、回廊がそっくり横倒しの状態で発見されて大きな反響を呼んだ。

 仏堂そのものではないが、瓦はもとよりエンタシスの柱や連子窓など多くの建築部材とともに、表面に白土を塗った壁土も出土している。

 この山田寺は、聖徳太子の伝記として著名な『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうてせつ)』の裏書きに遺(のこ)された造営経過によって、金堂の完成が皇極2(643)年であることが知られており、その金堂の礎石と回廊の礎石は同じ様式であることから、倒壊した回廊も金堂とほぼ同時期の建築であろうと推測されている。したがって、和銅年間に再興したという法隆寺西院伽藍(がらん)より約半世紀も古い遺構ということになり、考古学史上のみならず建築史上でも画期的な大発見となった。

 壁について見れば、連子窓下の腰壁などには、木舞下地の一部が残っており、そこでは太い間渡に細い小割り材の木舞を縦横に絡(から)めて格子をつくるという法隆寺金堂の下地と同様の状況が確認されている。

 また、壁の表面には、所々に点々と白い斑点が認められており、これまた同様に白土の上塗りが施されていたことも判明している。回廊ですらこのような状況であったことは、当然金堂でも同様、あるいはそれ以上の壁仕様であったと考えることは想像するに難くない。

 ところで、寺院の屋根瓦のうち軒先を飾る軒丸瓦は、考古学上では土器とともにつとに型式分類が進み、細かく年代設定が行われている遺物の代表でもある。山田寺の単弁軒丸瓦は「山田寺式軒瓦」として、7世紀第2四半期の新しい型式を代表した。

 この型式の軒瓦は、畿内のみならず、西は岡山県、東は千葉県・群馬県まで広範囲に分布していることから、すでに7世紀中ごろには、そうした瓦を伴った多層構造・白塗り仕上げの壁を持つ仏堂が東国にまで普及していたのであろう。

 こうした地方寺院の造営者は、評制の施行に伴って再編された国造層であって、すなわち大化改新以降の仏教興隆政策に伴う造寺活動の本格化を意味している。それはひとえに、仏教が地方における政治的イデオロギーの表れであったからに他ならない。

 一方で、こうした実際の遺構のほかに、文献などからもある程度壁構造の復元が可能だ。代表的なものとして「正倉院文書」があり、そこには興福寺西金堂(733年造営)、法華寺(760年ごろ造営)、石山寺(762年造営)などの造営記録が残っていて、8世紀半ばごろの壁工事の状況を窺(うかが)い知る手がかりとなっている。

 それによれば、下地は壁桟・壁木または木材を細長く割った榑(くれ)と呼ばれるものを針縄で編む。この榑の樹種は石山寺の例ではマツやスギであったという。

 また、下・中塗り用の土は、現在のような良質の採掘場が確立されておらず、現場周辺の適当な場所から調達したらしいことも読み取れる。上塗りの主材料は白色粘土と消石灰が用いられ、苆(すさ)には麻や紙があてられ白米などを糊(のり)として加えられたことも分かっている。

 以上、遺構や文献等をもとに、慧日寺が創建される以前、奈良時代までに確立していた古代寺院の壁の特徴を挙げると、(1)下地は小割りにした木材を格子状に組んで、縄で編んだ木舞である。(2)荒壁と中塗りの土は普通の山土程度のもので、苆に稲藁(いなわら)などが加えられている。そして、粘土の粒子・苆の長さとも中塗りの方が細かく短い。(3)上塗りは白土または消石灰で、苆と共に糊が加えられる。苆には紙や麻をほぐした繊維が混ぜられ、糊は主として米粥(かゆ)が用いられた。といった点にまとめられている。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 21 】

復元金堂荒壁の藁苆(わらすさ)


荒壁の練り

【2007年8月29日付】
 

 

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