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土壁の美継ぐ復元金堂
古代、壁工事にはどのような人々が職掌としてかかわったのであろうか。大宝令(701年成立)の規定では「土工司(つちのたくみつかさ)」をもって、建設関係の独立した官司を設置したという。
また、養老令の注釈書である『令義解(りょうのぎげ)』(833年撰進)によると、土工司は正六位の正を長官として、瓦製作を含めた土作を掌握し、併せて石灰を焼く職務も司った。
こうした記録によって、壁に関する職掌が土工司にあったことは明らかである。その後『続日本後紀』承和2(835)年9月1日の条に記された木工寮(もくりょう)の工人編成では、瓦工・石灰工などとともに土工も同寮の指揮下となっており、土工司については平安時代初期には木工寮に吸収されていたことが知られている。
木工寮は律令制下の宮内省に属する機関で、宮殿などの土木・建築さらには修理を一手に引き受けた部署でもある。官寺と呼ばれる大寺は各造寺司が管轄しており、これまた官職の範疇(はんちゅう)である。
いずれにせよ、律令制発足以来、中央に壁工事を司る官職が置かれていたことは明白で、建築関係諸職の中でも相当の地位を誇っていたことが窺(うかが)える。このような背景もあって、仏堂の壁技術は古代においてすでに高度な技法が確立しており、以来、基本的にはほとんど変わることなく現代にその技術が継承された。
復元金堂は平安時代初期の建物を想定したものであることから、壁構造も基本的には先に触れた法隆寺等の古代仏堂に見られる三層構造を踏襲(とうしゅう)している。
しかしながら、壁下地には木舞ではなく、ヒノキの二寸角の材を組み上げた木格子を用いた。この木格子の様子は前々回の本紙上に写真を掲載しているので、改めてご参照願いたい。
格子はあらかじめ柱間の寸法に合わせて組み上げておき、柱の本組みに際して、上から落とし込む方法で設置したもので、本来の古代仏堂にはない工法ではあるが、耐震補強を考えて今回あえて採用した下地構造である。その後の壁塗りにおいては、4月末に荒壁が打たれ、約3カ月半にわたって乾燥養生期間を設けた後、8月中旬からは第2段階である中塗りが始まっている。ここでの壁土は、粘質の強い篩土(ふるいつち)に砂・藁切(すさ)を入れて撹拌(かくはん)したもので、切には繊維をきぬたで叩(たた)いたような綿状のアク抜き切を用いた。壁格子に絡ませた木舞縄(こまいなわ)も、今行われている中塗りですべて塗り込められ、いよいよ壁らしい表情を呈してきたところである。現場で見る中塗りの仕上がり面は、全体としてはまだ下塗り段階ではあるが、淡い深緑色をして、柱の赤とのコントラストが実に美しい。こうした木舞壁の美しさは、日本建築の中でも特筆すべきもので、1つの芸術品と言っても過言ではないが、それは取りも直さず長期にわたる工期、はたまた工程管理の難しさなどを克服してきた工人たちの試行錯誤がなせる業でもある。
このような手間をかけた壁土を、例えば解体修理に際して捨ててしまうのはもったいない。それどころか、壁材としてはむしろ稀少良材として重宝されており、解体後は細かく砕いて、新しい土を混ぜて練り返しまた壁として甦(よみがえ)っていく。古来リサイクルの典型材でもあり、今回の復元に際しても、荒壁には大坂土とともにそうした古材を混和して用いられた。
慧日寺跡の中心伽藍(がらん)では、これまで明確に壁土や壁材と断定できるものは確認されていないが、同じ慧日寺跡のうち、中心伽藍から北東約2キロに位置する観音寺地区では、建物跡周辺から硬化した壁土状の粘土塊が採集されている。あるいは焼失材の可能性もあって、将来的な調査によって壁材が発見される期待も膨らむところだ。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
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中塗り作業が進む復元金堂
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中塗り後の外壁 |
【2007年9月5日付】
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