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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  みちのく正倉院 撥鏤尺(上)  ー
 
 130年ぶりに甦る”秘宝”

 平成18年も明けて間もなく、ガラス工芸史、東西美術交渉史の研究者として著名な吉水常雄氏による『天皇のものさし』の発刊は、われわれに大きな衝撃を与えた。

 正倉院から流出したとされる撥鏤尺(ばちるじゃく)・牙尺を、およそ40年間にも亘わたって追跡した成果をまとめられた一書であるが、その中には、慧日寺旧蔵の撥鏤尺が、平成17年に開館した九州国立博物館の開館記念特別展「美の国日本」に出陳されたという驚くべき内容が記されていたのである。

 筆者は、吉水氏と親交のある県考古学会会長の穴沢柱氏からの連絡で、早速に同書を購入。

 残念ながら、その時点で同展はすでに閉幕していたため実見する機会は逸したが、穴沢氏の仲介により、展覧会の図録を入手できた。

 「撥鏤」とは、端的に言えば象牙の装飾法の一つである。具体的には、象牙を染料で紅・紺・緑・紫・茶・黄などいろいろな色に染め、それに花鳥や動物などの文様を撥(は)ね彫りと呼ばれる毛彫りで刻んでいくものである。染められた象牙を彫ることによって、象牙の白とのコントラストが文様を浮かび上がらせるという仕組みである。

 これだけなら、「なるほど、象牙の工芸品か」程度に思われるかもしれないが、そもそもは唐代の中国で始められた技法で、ものさしをはじめ碁石や琵琶の撥、装飾箱、刀子の鞘(さや)・柄(つか)など、古代宮廷貴人の調度品のみにしか見られない高度な装飾技法であった。

 わが国には、天平時代、盛唐文化の流入とともに伝えられ、現在、そのほとんどは正倉院御物でしか目にすることはできない。ところで、当時わが国では尺度の基準を唐に倣っており、その意味でも国家の基準のものさし(尺)は、唐から直接招来されたものを使用したと考えられている。

 したがって、徴税や建築様式など、度量衡の基準を象徴するものさしは、国家運営を行う天皇の下で厳重に管理されたもので、何人たりとも保持することは許されなかったはずである。ところが、そうした撥鏤尺の一枚が、かつて慧日寺に伝わっていたのである。

 先に紹介した「大寺村 地志扁集」中の「瑠璃尺(るりしゃく)」がそれであり、『新編会津風土記』には「如蔵尼(にょぞうに)所持尺」として図入りで収録されている。三鈷杵(さんこしょ)同様、これもまた実際には徳一の存在が大きく関係しているものであろうが、「みちのくの正倉院」と冠した所以(ゆえん)である。

 江戸時代後期には、すでに寺宝としての扱いのみならず学問的分野からも広く注目を集めており、一例を挙げれば、文化・文政年間に成った、当時最も権威のある度量衡研究書『本朝度量権衡攷(ほんちょうどりょうごんこうこう)』(狩谷夜斎(かりやえきさい)編)には、詳細な見取り図が掲載されている。

 また、幕末の博物学者である屋代弘賢(やしろひろかた)の編纂(へんさん)による百科事典『古今要覧稿』では、より詳細な記述があるので引用してみよう。

 「恵日大寺瑠璃尺 (前略)其の形は大かた法隆寺の牙尺にたがふことなし。すなわち、一寸より五分にいたるまでは、全く今の曲尺にて、其末は寸を画せず、法隆寺の尺に比すれば、一分五厘長き也。角を用いて造り、其面に、花鳥、側面に香草を描きし様など、大概おなじ。多く藍色を施せしゆえに、土俗これを瑠璃尺といふ。(中略)背に十二支を描けり。寅に始まり、丑に終る」とあって、その特徴は、文様としては片面には花や鳥が、もう一面には寅から始まる十二支の動物が彫られ、側面にも草文が見られること。

 そして一面には一寸から五分までの目盛りが刻んであること。象牙の染色は藍色であったことから、俗に瑠璃尺とも称されたこと。法隆寺にあった尺より一分五厘(約5ミリ)ほど長かったことなどが分かる。

 ところで、この撥鏤尺は、明治期の古社取調などによって、廃寺後も磐梯神社の宝物として引き継がれたことが分かっているが、ある時期に忽然(こつぜん)と姿を消してしまう。それからおよそ130年。冒頭に紹介したくだんの図録には、寅から始まるこの十二支の撥鏤尺が、色鮮やかに甦よみがえっていたのである。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 27 】

慧日寺尺(左)と法隆寺尺(右)



【2007年10月10日付】
 

 

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