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数奇な運命 130年の流転
先にも紹介したが、撥鏤(ばちる)とはまず象牙を染料で紅・紺・緑・紫・茶・黄などいろいろな色に染め、それに花鳥や動物などの文様を撥(は)ね彫りする技法をいう。部分的に点彩を施すことによってより鮮やかな彩りとなる。
実はこの撥鏤技法、本場中国でも絶えており、復元は不可能といわれていたが、驚くべきことに、我(わ)が国にこの技術を甦(よみがえ)らせた人物がいた。平成16年に亡くなった吉田文之(よしだふみゆき)氏。昭和60年に撥鏤技術で重要無形民俗文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定された人物だ。
生前、正倉院事務所の松本包夫(まつもとかねお)整理室長(当時)との対談の中で、その技法について詳しく触れているので、要点を紹介してみよう。
まず材料である象牙(ぞうげ)。アフリカ像とアジア象があるが、正倉院のものはアジア象の牙と見られている。前回紹介した『大唐六典(だいとうりくてん)』によれば、中尚署(ちゅうしょうしょ)が製作にあたった鏤牙尺(るげじゃく)の原料は、広州や安南(ベトナム)から入手したことが知られている。その他にも、ベトナム北部の驩州(かんしゅう)から象牙が貢納されたことも記されており、こうした東南アジア地域の象牙が唐へと運ばれ、工芸品の製作に用いられたようだ。
唐の地理的・政治的状況を勘案すれば、東南アジアからインドにかけて生息する象を対象としたのはむしろ当然であったのであろう。実際、アフリカ象の象牙は大きいが、硬さが一様でなく、撥鏤に用いるには均質で硬いアジア象の方が適しているとのことだ。
なお、適材は中が空洞になっていない先端部の限られた部位だけで、一本の象牙でもごく一部分にしか過ぎない。実は正倉院南倉にも象牙の原材が残っているが、化石化していて工芸材として用いることができたかどうかは不明らしい。
ところで、実見していないので断言はできないが、慧日寺尺とされる撥鏤尺は、写真を見る限りどうやら湾曲しているようである。この湾曲を後世のものとする説もある一方、中央から均等に反っているようにも見えることから、貴人が腰に差していた佩用はいよう儀礼に用いたのではないかと推測する研究者もいる。
続いて染色。昨年の正倉院展(奈良国立博物館)には紅牙(こうげ)撥鏤尺が出陳された。筆者は九博出展尺を見逃した経緯もあって、是が非にでもと、唯一これだけを見るために出かけたようなものであったが、深紅の輝きを眼前にして、鳥肌が立つような感動を覚えたのを今でも鮮明に記憶している。
どうやってあのような鮮やかな色が付くのか。吉田氏が試行錯誤の結果探り当てた方法は、染料で煮込むことであった。染料を煮出し、そこに媒染(ばいせん)を入れて発色させ、沸騰させた中に象牙を漬ける。
ただし、熱くなると象牙が反ってくることもあるので、30分ほど煮ては水で冷やすことを7、8回繰り返すと、その後1週間程度で染色は定着するという。
一説には、象牙を染めるのに、10年以上染料に漬けておかなければならないという話も聞くが、吉田氏の技法はわずか1週間。驚き以外の何ものでもない。
最後に彫り。撥ね彫りとは、刀の先をまさに跳ね上げるように彫る技法で、これに使用する彫刻刀も吉田氏が考案した。筆先よりも細い刀を使用するため下絵は描かず、頭の中の構図を一気に彫り上げるという。
こうして、紅牙撥鏤尺・緑牙(りょくげ)撥鏤尺を筆頭に、正倉院宝物にある多くの撥鏤工芸品が吉田氏によって復元されたのである。
正倉院はシルクロードの終末地点と称される。慧日寺の十二支文撥鏤尺は、その道筋をさらに東方、僻遠(へきえん)の地へと延長した。各地を流転することすでに130年。数奇な運命を辿たどったこの撥鏤尺を、再び目にする機会が得られることを切に望むところであり、復元された技術でせめて複製品でも、と欲は募るが、今は我が国のしかるべき蒐集家(しゅうしゅうか)の手元にあることを確認できたことだけでも、良しとせねばならないのかもしれない。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
【 29 】
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慧日尺の描き起こし図の右部分(嘉永2年)=鈴木洋一氏蔵
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【2007年10月24日付】
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