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徳一が招来?
南都の技法
建物跡ばかりに目が奪われがちだが、慧日寺跡中枢部の遺構を特徴付けるものの一つに、金堂前に広がる石敷き前庭がある。東西約35メートル、南北約25メートルにも及ぶその広がりは、見る者はもちろんのこと、我々調査に携わった者をも圧倒するほど壮観なものであった。
発見は今から10年前。きっかけは土層確認を目的とした1本のトレンチであった。それまでの境内地の調査では、すぐ東側を流れる花川の氾濫(はんらん)堆積層が、金堂跡南方にかけて広く覆うように厚く堆積していたため、その下層での遺構検出は困難であろうと判断していた。
ところがこの年、整備の基礎資料として、地盤確認を兼ねてこの氾濫層以下の状況を確認してみようということになり、深掘りを行った。その結果、氾濫堆積層の下から偶然に石敷きが見つかったのである。
ただし、その時点では幅3メートルのトレンチ調査に止(とど)めていたこともあって、中枢伽藍(がらん)に至る参道ではないかと推測するにとどまった。後年、境内地の全面的な調査を行ったところ、石敷きは東西に大きく広がっていることが確認され、遺構面の高さなどから初期の金堂・中門と同時期のもので、その両者に挟まれた空間全域に広がる石敷き広場のような形態であることが判明したのである。
敷き詰められた石は自然石ではあるが、西側に見切りの石列が残ることや、敷設の際の基準線にしたとみられる一直線状の石列もあって、明らかに人為的に敷設されたものであることが分かった。
では何のためにこのような石敷きが行われたのであろうか。そのヒントは奈良興福寺に見ることができる。徳一が若年を過ごしたとされる南都興福寺では、現在創建1300年に向け伽藍復興整備事業が進行中であるが、それに伴う境内部の事前発掘調査において、中金堂跡の前面から石敷きの広場が発見されている。
中門から延びる回廊が金堂に取り付き、その内部にある石敷きはまさに金堂前庭の儀式空間として利用されたことを物語っており、慧日寺跡の場合は粗雑な面もあるが、位置や広がりの範囲など類似する点は多い。
若き日の徳一が、そこで目にした儀式をこの地で再現するため、同様の石敷き技法をはるか会津の地で援用したのかもしれない。その他、岐阜県北部、高山盆地の北西部に位置する飛騨市の杉崎廃寺においても、中心伽藍周辺一帯から石敷きが確認されている。
杉崎廃寺は7世紀末葉に創建された白鳳時代の寺院跡であるが、小規模ながら金堂・塔・講堂等の主要な堂塔を備えている。伽藍配置は、金堂の東側に塔を配し中門・金堂・講堂が一直線上に並んだもので、中門の東西から延びた掘立柱塀は北側の講堂に取り付き中枢伽藍を方形に区画している。
この区画内は、建物跡基壇を除く全面に玉石が敷き詰められているのが特徴で、伽藍が低地に造営されたことのほか、伽藍域の清浄や荘厳を際立たせるためのものと解釈されている。飛鳥の宮殿遺構をも彷彿(ほうふつ)とさせ、その背景に飛騨の工人集団の存在が関係していた可能性も指摘されている。
もう一つ、こうした儀式や伽藍の清浄・荘厳性といった要因とは別に、湿地対策という見方ができる。冒頭で触れた花川は、中枢伽藍立地条件の一つでもあるが、半面増水時には境内に大きく氾濫する。
普段から伏流水の影響もあって下層はかなり湿潤であり、さらに融雪期にはかなりのぬかるみを作る。石敷きは、北東から南西に向けてやや傾斜しながら敷設されており、実際に露出した遺構上を雨水が流れ下る状況からすれば、排水対策の一面も有していたに違いない。
徳一によって招来されたであろう南都の土木技法が、雪国での対応の中で排水機能をも具備するようになったと考えることも、強(あなが)ち的外れではなかろう。積雪地方での類例遺構の蓄積が待たれるところである。
(磐梯山慧日寺資料館学芸員)
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白岩賢一郎
【 30 】
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石敷き前庭の全景
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興福寺中金堂前の石敷き=「興福寺」より |
【2007年10月31日付】
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