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1 ◇   【07 1/16掲載】
日本人初の農業移民団
現在も米カリフォルニア州プラサビル市の小高い丘にあるおけいの墓を参拝する調査団一行=昨年10月、ゴールドヒル
第一部
会津娘おけい物語
 会津戦争の敗戦契機/武器商人の子守で渡航

 「丘の下からはお墓は見えませんが、登っていけばすぐに分かります。さあ、行きましょう」
 昨年10月22日、カリフォルニア州都サクラメント市から東へ車で約45分。エルドラド郡プラサビル市ゴールドヒルの小高い丘を、南カリフォルニア福島県人会の元会長で現顧問の小山信吉(二本松市出身)、全米日系人歴史協会長の河内泰彦フレデリック、カリフォルニア大教授ウエイン・マエダ(民族学)、サクラメント仏教会のトム・フジモトらが声を掛け合い、歩き出した。目指すのは、会津出身の日本人女性おけいの墓。

 墓は私有地にあり、最近は土地所有者と連絡が取れない状態が続くため、一行は現況を調べようと訪れた。墓に着くと、墓前に花を供え、全員が静かに手を合わせた。

 日本人初の北米大陸移民は、1869(明治2)年の会津藩士を含む農業移民団「若松・ティー・アンド・シルク・ファーム・コロニー(若松コロニー)」。おけいはその一員で、渡米後2年で亡くなった。なぜ一行は渡米し、おけいは米国の土になったのか。本県移民の物語は、このおけいの墓から始まる。
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 時代は139年前の1868(慶応4)年。鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、8月には薩長軍が会津に攻め入り、会津戦争となった。白虎隊は飯盛山で自刃、会津は落城した。

 会津最大の悲劇であるこの戦争での敗戦は、会津の社会や文化、歴史に深い傷跡を残した。この時、敗戦後の新天地を海外に求めた人々がいた。会津藩と貿易をしていた武器商人のプロシア人、ヘンリー・シュネルに率いられた会津の人々だ。一行は69(明治2)年春、蒸気船で横浜港から米国に向かった。これが日本人初の北米農業移民団「若松コロニー」。この中にシュネルの日本人の妻おようと娘、子守のおけいの姿があった。

 前年の68年、海外短期出稼ぎで日本人153人の「元年者」が船でハワイに渡ったが、米本土の日本人はまだ少数だった。

 渡米を報じた69年5月27日付アルタ・カリフォルニア紙が、カリフォルニア大バークレー校の図書館にあった。記事は「日本人移民が到着」の見出しで「内紛で居場所を失った日本人3家族が先陣で到着。後に3人のプリンスも来るだろう」と報じた。プリンスとは会津藩主松平容保(かたもり)や息子容大(かたはる)とみられる。

 しかし、プリンスは渡米しなかった。70年、容保は隠居し、息子容大に下北半島の斗南(となみ)藩の封地が与えられ、会津の人々約1万7000人が下北半島へ向け、会津を離れたからだった。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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