会津戦争の敗戦契機/武器商人の子守で渡航
「丘の下からはお墓は見えませんが、登っていけばすぐに分かります。さあ、行きましょう」
昨年10月22日、カリフォルニア州都サクラメント市から東へ車で約45分。エルドラド郡プラサビル市ゴールドヒルの小高い丘を、南カリフォルニア福島県人会の元会長で現顧問の小山信吉(二本松市出身)、全米日系人歴史協会長の河内泰彦フレデリック、カリフォルニア大教授ウエイン・マエダ(民族学)、サクラメント仏教会のトム・フジモトらが声を掛け合い、歩き出した。目指すのは、会津出身の日本人女性おけいの墓。
墓は私有地にあり、最近は土地所有者と連絡が取れない状態が続くため、一行は現況を調べようと訪れた。墓に着くと、墓前に花を供え、全員が静かに手を合わせた。
日本人初の北米大陸移民は、1869(明治2)年の会津藩士を含む農業移民団「若松・ティー・アンド・シルク・ファーム・コロニー(若松コロニー)」。おけいはその一員で、渡米後2年で亡くなった。なぜ一行は渡米し、おけいは米国の土になったのか。本県移民の物語は、このおけいの墓から始まる。
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時代は139年前の1868(慶応4)年。鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、8月には薩長軍が会津に攻め入り、会津戦争となった。白虎隊は飯盛山で自刃、会津は落城した。
会津最大の悲劇であるこの戦争での敗戦は、会津の社会や文化、歴史に深い傷跡を残した。この時、敗戦後の新天地を海外に求めた人々がいた。会津藩と貿易をしていた武器商人のプロシア人、ヘンリー・シュネルに率いられた会津の人々だ。一行は69(明治2)年春、蒸気船で横浜港から米国に向かった。これが日本人初の北米農業移民団「若松コロニー」。この中にシュネルの日本人の妻おようと娘、子守のおけいの姿があった。
前年の68年、海外短期出稼ぎで日本人153人の「元年者」が船でハワイに渡ったが、米本土の日本人はまだ少数だった。
渡米を報じた69年5月27日付アルタ・カリフォルニア紙が、カリフォルニア大バークレー校の図書館にあった。記事は「日本人移民が到着」の見出しで「内紛で居場所を失った日本人3家族が先陣で到着。後に3人のプリンスも来るだろう」と報じた。プリンスとは会津藩主松平容保(かたもり)や息子容大(かたはる)とみられる。
しかし、プリンスは渡米しなかった。70年、容保は隠居し、息子容大に下北半島の斗南(となみ)藩の封地が与えられ、会津の人々約1万7000人が下北半島へ向け、会津を離れたからだった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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