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2 ◇   【07 1/17掲載】
若松コロニー
画家ジョージ・マシスによる若松コロニーのイメージ画(ジャパニーズ・アメリカンズ・イン・ザ・サクラメント・リージョンより)。着物姿で荒れ地を開墾する一行が描かれている
第一部
会津娘おけい物語
 日本人は20数人/気候あわず農地開拓失敗

 10月にカリフォルニア州プラサビル市のおけいの墓を訪ねた調査団の1人で、全米日系人歴史協会長の河内泰彦フレデリックは「幼いころ、祖父が私におけいさんのことを話してくれた。故郷が恋しくて、日本の方を見て泣いていたそうです」と語る。

 おけいを含む日本初の北米移民団・若松コロニーはどんな顔ぶれだったのか。1960年代、カリフォルニア州都サクラメント市で日系移民史を研究した日系人弁護士ヘンリー・タケタ(故人)と妻サリーが1870(明治3)年6月の現地の国勢調査票を、研究者ファン・セイヤーが土地売買記録をそれぞれ発見して概要が分かってきた。会津図書館には、タケタが日本に送った国勢調査票のコピーが保管されている。

 同調査票によると、20数人の日本人がいたとみられ、39歳のシュネル、24歳のジョー、フランセス、メリーの名がある。ジョーはJoeで、シュネルの妻「およう」ではないかという。日本名はほかにニセジャワ、ダイジロウ、トモゴロウ、キンタロウ、シンジロウ、アメサブロウなど。しかし、おけいの名はない。

 77年ごろ、米国にいた伊達多仲は歴史研究者への手紙で「私が行ったころには、わずかに12名残っていた」と記し、「大工の井筒友次郎、桜井松之助、他の1人」とした。作家で研究者の木村毅も「桜井松之助、松井、姓不詳・進之丞、増水国之助」を挙げる。後に増水と桜井の写真や増水の墓が確認された。

 では、一行の渡米目的だった農地開拓はどうなったのか。69年5月27日付のアルタ・カリフォルニア紙は「彼らのほとんどは養蚕農家で、お茶も栽培する。養蚕のため5万本の桑の木を持参し、600万個のお茶の種も届く予定」と記した。

 しかし、入植地は乾燥する高原地帯で、桑や茶に気候が合わなかった。現在はスプリンクラーがあるが、当時はそんなものはなく、苗木は枯死した。それでも人々は何とか改善を試みたのだろう。木村は1931(昭和6)年、一行が作ったと思われる日本式の車井戸を現地で発見した。

 若松コロニーは、農業開拓移民団としては失敗に終わった。しかし、アラバマ大教授のジョン・ヴァン・サンは論文「パシフィック・パイオニア」で歴史上の意義を指摘する。1つは、組織された最初の日本人渡米移民開拓団であること。もう1つは、19世紀後半から急激に拡大した日本の影響の先駆けだったとし、開拓者としての若松コロニーの功績を評価した。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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