異国に置き去りに/おけい死去後
牧草地に墓
カリフォルニアの入植地若松コロニーで、養蚕も茶の栽培も失敗に終わった後、指揮官のヘンリー・シュネルは妻子を連れ、金策のため現地を離れた。移民団のおけいと桜井松之助、増水国之助らは残り、その帰りを待ったがついに戻らなかった。おけいと桜井は現地の豪農ビアカンプ家に引き取られ、増水国之助は黒人の女性と結婚した。
異国に置き去りにされたおけいには、さらなる悲劇が訪れる。高熱が出て病気の床に伏し、回復することもなく亡くなってしまう。病気はマラリア、風土病など諸説あるが、詳しいことは分かっていない。
それから10数年がたち、おけいをふびんに思った増水、桜井ら若松コロニーの元の一員が声を掛け合って募金、サクラメントまで出掛けて墓石を求め、文字を刻んでゴールドヒルに持ち帰り、牧草地の丘に墓を建てたという。桜井が1人で、自分の給料をためて建てたという話もある。
白い大理石に「おけいの墓 日本皇國明治四年 月 日 没す 行年19才」「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19 Years. (A Japanese Girl)」と刻まれたが、命日は空白だ。
その後、桜井は引き取られたビアカンプ家で農作業に従事、結局1度も日本に戻ることはなく、独身のまま1901一(明治34)年に65歳で他界した。
会津美里町の作家大石邦子は「おけいの墓を建て、長年守ってきた桜井松之助なくして、おけいと若松コロニーの存在が後世に伝えられることはなかった」と、おけいだけでなく桜井にも関心を寄せる。
おけいの墓は長年牧草に埋もれたままだったが、やがて世に出る時が来た。
それは15(大正4)年(16年の説あり)のこと。山形県出身で、現地の日米新聞記者の竹田雪城(文治郎)が、現地で農業を営む国司為太郎の案内でおけいの墓を訪れたことがきっかけだった。おけいを引き取って世話をしたフランシス・ビアカンプと妻ルイザは既に亡く、竹田はその息子で84歳のヘンリーから直接、おけいと若松コロニーの歴史を取材して報じた。作家で評論家、おけい研究の第一人者となる木村毅も現地を訪れ、「明治建設」を著した。ヘンリーは、おけいのことを「優しく美しい日本娘」で「美しさ、やさしさ、上品さを讃(たた)へた」(「明治建設」より)という。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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