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4 ◇   【07 1/19掲載】
シュネル像
シュネル像
兄ヘンリーと弟エドワードの両説があるシュネルの写真(木村毅「明治建設」より)
第一部
会津娘おけい物語
 ジュネーブに出没?/その後の足取り謎多く

 会津の武士や町娘を北米大陸まで連れて行った若松コロニー指揮官ヘンリー・シュネル。彼はいったいどんな人物だったのか。

 その足跡を詳報した山形市の歴史研究家高嶋米吉は「ゴールドヒルの『松平スネール』前プロシャ公使館書記官イ・ヘンリー・スネル=平松武平について」で、シュネルは幕末の1868(慶応3)年1月、プロシア公使館書記官を務め、弟エドワードはスイス領事館書記官だったとする68年の史料「維新史料綱要・巻七」を示した。

 会津でのシュネルは、まげを結い着物に刀を差した武士の姿で、海外から輸入した武器を売る商売で会津藩に出入りしていたという。松平公から「松平」の姓を賜ったが、文字を入れ替えて「平松」を名乗ったという。「松平スネール」「平松武兵衛(武平)」と、日本名には諸説ある。

 史料には68年11月、大阪に向かう途中の幕府艦船で、シュネルと越後長岡藩の家老河井継之助が会った記録もある。河井は作家司馬遼太郎の「峠」で知られ、終えんの地只見町には記念館がある。

 若松コロニーを離れた後のシュネルの足取りは不明だ。作家木村毅は「スネルは明治18年にはジュネーブにいた確證(かくしょう)がある。それは明治翻譯(ほんやく)小説の第一人者とし、先頭を切られた川島忠之助翁が、ジュネーブで会はれた話を、私は翁から直接に聞いたのである。なほ、この一行の中で西川友治のみが帰って来た事は、会津の遺老(いろう)から親しく聞いた」と記す。川島はジュール・ヴェルヌ作「80日間世界一周」の翻訳者だ。

 会津若松市の元学校長で元市議、市文化財調査委員長の古川佐寿馬(さじま)は、米国の研究家に当てた書簡で「シユネールは彼の妻(日本人)と2人のむすめ(8才と5才)をつれて資金あつめに日本にかえり そのあと ドイツにゆき事業をやって資金を集めようとしたが失敗し 日本人の川島忠之助という作家が明治18年にジュネーブで彼に会ったと本人(川島)が発表しております。それがシュネールの消息の最後で日本に帰っておりません。またその家族のこともわからぬのです」とした。

 シュネルは妻おようと2人の子どもを連れ、遠くの別世界に消えた。その時期も状況も明確ではない。兄ヘンリーと弟エドワードは容姿が非常によく似ていたといわれ、現在残っている写真は兄弟両説がある。スイスのジュネーブに居たのは、弟エドワードがスイス書記官をしていた縁か。シュネル自身も謎の多い人物だ。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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