出生地は材木町か/5人きょうだい、7人家族
おけいの生涯をたどる調査は、現在も日米双方の研究者により進められているが、いまだに分からないことの方が多い。カリフォルニアに残る白大理石の墓がおけいに関する唯一の史料で、桜井松之助や増水国之助のような写真もない。
1877(明治10)年前後に渡米した伊達多仲は、歴史研究家尾佐竹武にあてた手紙で、おけいは「利根川あたり栗橋駅から2、3里下流にある島の村のもの」と書いた(木村毅著「明治建設」)。その後、作家河村幽川が町役場で調べたが、手掛かりはつかめなかった。
会津若松市の元小学校長で元市議の古川佐寿馬は昭和30年代、ある情報を得た。古川は同市の中野善蔵の母みちから「おけいの生地は若松市材木町で、旧称『いもがら新田』」と直接話を聞いた(高橋莞治著「芳山文庫第19輯 移民少女おけい抄」)。さらにシュネルの妻を知る人にも会った。「シュネールの妻は会津藩士の娘で、そのことをよく知っている老人(前若松市長佐瀬剛の母)が直接、木村毅さんにも私にも証言しております」(「古川佐寿馬遺稿集」)。
当時「いもがら新田」の地名は残っていなかったが、古川は1625(寛永2)年の風土記に地名「芋茎新田」を発見。材木町の西側で、明治初期は3軒の家があった。
1958(昭和33)年、市役所門田支所の取り壊しを聞いた古川は、急いで支所から古い戸籍簿を借り受けた。おけいが亡くなった1871(明治4)年の簿冊を4年後に書き改めたもので、紙はぼろぼろだった。
古川が「外科医がメスを握るような心境」で慎重にページを繰ると、「いもがら新田」に伊藤文吉一家があった。妻きく、長男熊太郎、次男熊次郎、19歳の長女、三男、次女とめの文字。71年に19歳になる長女はおけいと同い年だが、肝心の名前の部分は虫食いで読めなかった。
古川は「おけいは米国にいて生死が分明しなかったのであるから、親は生きているものとして戸籍役人に申し入れたに違いない」とし、「吟味の余地がある。しかし拠(よ)るべき事実は十分あると思う」とした。
その後、次々におけいの小説が発表された。早乙女貢の「おけい」「続会津士魂反逆への序曲」、五明洋の「幻のカリフォルニア若松領 初移民おけいの物語」、会津美里町の鶴賀イチの「少女おけい」など。短いエッセーなども含めると多数にのぼる。それらの多くが、おけいは5人きょうだい、7人家族で、父伊藤文吉、母きくという、古川の調査を参考にした家族構成になっている。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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