数人、嘆願し帰国か/記録なく歴史の謎の中
若松コロニーが解散し、おけいが死去した1871(明治4)年の12月、右大臣岩倉具視を特命全権大使とする使節団が1年10カ月の欧米視察に出た。薩長中心の新政府側と、海外実務経験豊富な旧幕臣の呉越同舟だった。
72年1月(旧暦12月)にサンフランシスコ港に着くと、使節団は礼砲で迎えられた。5人の女子留学生の中には、会津藩家老山川尚江の12歳の末娘咲子がいた。母唐衣は「捨てたつもりで待つ(松)」と、咲子を「捨松」に改名して送り出した。
地元新聞は、捨松や津田梅子ら女子留学生の到着直後は「姫君」「高貴な生まれの淑女」と伝えたが、後に「ちいちゃくてちっぽけな小娘」と報じる(シドニー・D・ブラウン「アメリカ西部の岩倉使節団」)。
5人のうち捨松と梅子、永井繁子以外の2人は1年で帰国しており、波乱の米国生活がうかがわれる。捨松は10年間学んで帰国し、慈善活動に取り組んだ。
捨松のひ孫で「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生」を著した久野明子は、同時代に渡米したおけいと捨松について「おけいさんの情報がほとんどないので難しい」としながら、「戊辰戦争で会津が敗れるという逆境ゆえの運命だったのでは」と語る。
使節団が米西部に6週間滞在した間、若松コロニーの何人かが嘆願して従員となり、日本に帰ったとの話がある。だが「特命全権大使 米欧回覧実記」(久米邦武編)にその記述はない。
昭和40年代に会津図書館長を務めた竹田正夫のメモに、若松コロニーの帰国者と思われる人物の名が残る。会津若松市の竹田と林毅、山形県の阿部正乃、高嶋米吉らの調査で、会津藩納戸役の木野源八郎の子木野源六、会津戦争当時14歳。
「(源六は)英語が上手でアメリカ式の発音で、外人との会話も自由であったという。彼(か)の地の習慣等に明るく、なかなかのシャレ者であった。山形で後年、精和園牧場を営み、牛乳店の草分けであった」(竹田メモ)。源六は73年以前のことを家族に話したがらず、「米国に行ったことがあるでしょう」と聞いても否定しないだけだったという。
サンノゼの研究者山本一洋は著書「若松コロニーの跡を尋ねて」で、若松コロニーの柳沢左吉が使節団と共に帰国したと記した。
密入国に近い若松コロニーのその後は歴史ミステリーの中だ。真実に迫ろうとした研究家の努力の足跡をたどることができるのみだ。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
|