若松で計画が浮上/本県人らの力で実現加速
1915(大正4)年に現地を訪れた新聞記者竹田雪城の手でその存在が報じられ、太平洋戦争前からおけいの墓はブームになった。日米開戦のため下火になったが、戦後、会津若松におけいブームに再び火が付く。大きなきっかけは、会津若松市に墓の建立計画が起きたことだった。
やはりここでも元学校長の古川佐寿馬が中心人物となった。57(昭和32)年3月、会津若松市東山の農業石原貞一が派米農業実習生に決まり、石原が恩師の古川にあいさつに行った。古川は石原がカリフォルニアに派遣されると聞き、「カリフォルニアと言えばおけいの墓。来年は白虎隊90年祭が開かれる予定で、おけいの墓を故郷に建立したい。墓石の寸法と拓本、現地の土を会津に送ってほしい」と依頼した。
石原はサンフランシスコ到着後、現地の邦字紙「日米時事」に行き、社長の浅野七之助ら日系人から情報を得た。しかし、石原の農業研修地は南カリフォルニアのサンタバーバラで、おけいの墓のある北カリフォルニアのプラサビル市までは車で5、6時間はかかる。直接の訪問は困難だった。
そこで当時、北カリフォルニアのユバシティで3年間の短期農業研修団長として本県から派米されていた満山喜和(白河市)に連絡を取って協力を依頼した。満山は快諾し、「君の代わりに必ずおれらが墓参して写真、拓本、寸法を取る」と約束した。サクラメント在住だった柴田義雄(茨城県出身)、黒沢謙吉(福島市出身)ら本県出身者を含む日系人も協力を申し出た。
満山らは「サクラメントから現地までは1時間近くかかり、丸1日の道程。ピクニック代わりに行ってみようか」と、8人で車2台に分乗して出掛けた。現地に着くと、丘の上に墓が1基あるのみで寂しい場所だった。満山は「私が行った当時でも、アメリカに渡るのは大変なことで、今なら月に行くようなもの。19歳の娘さんが明治の初めにこんな遠くまでやってきて、白人社会で苦労したことを思うと、自然に涙がこぼれた」と当時を振り返る。
満山は、鉛筆で取った拓本と寸法を書いた紙、墓の写真と墓周辺の御影石のかけらを石原に送った。土は検疫で問題があるため小石になった。石原はこの小石を宝石箱に入れ、ほかの資料とともに会津若松の古川に送った。農業開拓団の一員だったおけいの墓建立準備は、くしくも米国に農業を学びに来た当時20代の若者の力で、実現に向け一気に加速した。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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