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9 ◇   【07 1/25掲載】
墓建立(上)
墓建立(上) 墓建立(上)
米カリフォルニア州の墓を訪れて拓本を取った満山と依頼した石原堰B満山は「涙がこぼれた」と当時を振り返る
第一部
会津娘おけい物語
 若松で計画が浮上/本県人らの力で実現加速

 1915(大正4)年に現地を訪れた新聞記者竹田雪城の手でその存在が報じられ、太平洋戦争前からおけいの墓はブームになった。日米開戦のため下火になったが、戦後、会津若松におけいブームに再び火が付く。大きなきっかけは、会津若松市に墓の建立計画が起きたことだった。

 やはりここでも元学校長の古川佐寿馬が中心人物となった。57(昭和32)年3月、会津若松市東山の農業石原貞一が派米農業実習生に決まり、石原が恩師の古川にあいさつに行った。古川は石原がカリフォルニアに派遣されると聞き、「カリフォルニアと言えばおけいの墓。来年は白虎隊90年祭が開かれる予定で、おけいの墓を故郷に建立したい。墓石の寸法と拓本、現地の土を会津に送ってほしい」と依頼した。

 石原はサンフランシスコ到着後、現地の邦字紙「日米時事」に行き、社長の浅野七之助ら日系人から情報を得た。しかし、石原の農業研修地は南カリフォルニアのサンタバーバラで、おけいの墓のある北カリフォルニアのプラサビル市までは車で5、6時間はかかる。直接の訪問は困難だった。

 そこで当時、北カリフォルニアのユバシティで3年間の短期農業研修団長として本県から派米されていた満山喜和(白河市)に連絡を取って協力を依頼した。満山は快諾し、「君の代わりに必ずおれらが墓参して写真、拓本、寸法を取る」と約束した。サクラメント在住だった柴田義雄(茨城県出身)、黒沢謙吉(福島市出身)ら本県出身者を含む日系人も協力を申し出た。

 満山らは「サクラメントから現地までは1時間近くかかり、丸1日の道程。ピクニック代わりに行ってみようか」と、8人で車2台に分乗して出掛けた。現地に着くと、丘の上に墓が1基あるのみで寂しい場所だった。満山は「私が行った当時でも、アメリカに渡るのは大変なことで、今なら月に行くようなもの。19歳の娘さんが明治の初めにこんな遠くまでやってきて、白人社会で苦労したことを思うと、自然に涙がこぼれた」と当時を振り返る。

 満山は、鉛筆で取った拓本と寸法を書いた紙、墓の写真と墓周辺の御影石のかけらを石原に送った。土は検疫で問題があるため小石になった。石原はこの小石を宝石箱に入れ、ほかの資料とともに会津若松の古川に送った。農業開拓団の一員だったおけいの墓建立準備は、くしくも米国に農業を学びに来た当時20代の若者の力で、実現に向け一気に加速した。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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