帰国後に民権運動
明治初期に渡米した本県人の出身地は、現在の伊達市、福島市西部など県北地区と、大玉村、本宮市、須賀川市などの県中地区に集中する。
その中でも、須賀川の北町町内から明治初期に5、6人が相次いで渡米している。これらの人々に大きな影響を与えた人物の中心となった1人が三浦篤次郎で、三浦は自由民権運動家として名を残す人物。
三浦の渡米は1873(明治6)年。その後同じ北町の山辺半二郎と弟末吉、沢田半之助と弟竹吉が、三浦の後を追って渡米した。
山辺と沢田の親族で、須賀川市文化団体連絡協議会長の山辺与夫(ともお)は「三浦、山辺、沢田は町内の私塾で英語を学んだという。これが渡米のきっかけでは」と語る。もう1つの渡米の理由は、三浦と沢田の実家が共に貸座敷業(遊郭)で、それぞれが家業を嫌ったことだという。
本県の自由民権運動の研究者で、元郡山女子大教授・同大付属図書館長高橋哲夫は、著書「風雲・ふくしまの民権壮士」(歴史春秋社)で、三浦の生涯を詳しくまとめた。
与夫の話や高橋の著書によると、三浦は58(安政5)年に須賀川の沢田家に生まれ、三浦家に養子に入った。両家は奥州街道筋で遊郭を営んでいた。商売は繁盛したという。成長すると、家業を「きたない商売」と嫌悪、須賀川医学校で学びながら英語の私塾に通った。73年に家を飛び出し、後に福島県令になる渡辺国武のお供として渡米。シカゴで皿洗いをしながら法律を学んだ。
80年、父運吉はついに遊郭を廃業して、家督である三浦の帰国を懇願。三浦はこの願いを受け入れて、23歳で帰国した。
だが三浦は、福島で静かに暮らすような人間ではなかった。自由民権運動家として「東北自由党は団結して板垣自由党と対等になるべき」と主張。82年に警察に逮捕され、5日後に放免される経験もした。後に県議となり政治家人生を送った。
高橋は「篤次郎は渡米中に民権思想を身につけたと思われる」と分析する。
まだ波乱は続く。県議を2期務めた後に再渡米した。「加州と福島県人」(佐藤一水著)には、88年にサンフランシスコで活躍した記述がある。
約20年間シカゴに滞在、再び帰国して千葉で隠居していた1937(昭和12)年、82歳で亡くなった。篤次郎のおいには、県議3期を務めた三浦一がいる。須賀川市には、現在も子孫がいる。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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