現地で洋服店開業
三浦篤次郎が渡米した同時期、同じ須賀川から渡米した顔ぶれの中に、沢田半之助がいる。沢田は1868(明治元)年、須賀川町(現須賀川市)北町に生まれ、24歳で渡米した。帰国して1934(昭和9)年に亡くなるまで、数奇な人生を送った。
沢田は結婚して一女をもうけた後、貸座敷(遊郭)を営む実家の騒動に巻き込まれる。そんな日々に嫌気が差していたころ、同じ北町の自由民権運動のリーダー三浦の影響を受けて渡米を決意。西海岸のサンフランシスコに渡った。
沢田の四男智夫のもとに残る米山梅吉の回顧文に、沢田の素顔がうかがえる。米山は日本のロータリークラブ創設者で、社会奉仕活動の先駆者として広く知られている。
米山の回顧によると、沢田はサンフランシスコで日本人初の洋服店を開業した。現地では「持ち前の世話好きと友人愛と博愛心」で、留学生や駐在員らの面倒をみたという。在米中はその中の1人のエール大学生片山潜とともに、日本初の労働組合「職工儀友会(後の職工期成会)」を設立した。
帰国後、須賀川医学校卒の医師で後に満鉄初代総裁となる後藤新平(岩手県出身)の支援を受けた。さらに、会津戦争(戊辰戦争)で会津と戦った後の陸軍大将で、後藤を介して知り合った児玉源太郎(山口県出身)の命で、李王朝の服飾指導のため朝鮮半島に渡った。しかし、李王朝で反日政権を樹立した閔妃(びんひ)一派に反発して日本公使三浦梧楼らが閔妃を殺害する「閔妃事件」に遭遇、日本に戻ることになった。
野口英世の渡米の際には、野口の恩師で東京歯科医学院の血脇守之助の依頼で、野口の借金弁済に協力。渡米を支援した1人という。
1898年には、米国で活躍した人々により設立された「米友協会」の常任幹事に就任。会長は男爵金子堅太郎、名誉会員は伊藤博文と西園寺公望、そのほかの会員も北里柴三郎、大蔵喜八郎など、そうそうたる顔ぶれだった。
同協会は1901年、神奈川県久里浜にペリー提督記念碑を建立した。この事業の中心となったのは、「兄弟愛とも言える厚き友情」で結ばれた沢田と米山だった。
沢田は18年に過労で倒れ、北里や血脇ら友人の医師の治療のかいなく、34年に没した。沢田は米山につねづね「財産は多くの良き友人たち」と語った。常に裏方に回って友人を支援し続けた生涯だった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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