幅広い人脈を築く
須賀川町から米西海岸に渡った商人沢田半之助について、都内在住の四男智夫と智夫のおいの藤村順彦は「小学校も卒業していない一商人の沢田が、なぜハーバード大卒や政財界の要人、労働運動の片山潜らと生涯にわたる交流を続けたのか疑問」と首をかしげる。
理由として考えられるのは「沢田が当時、在米日本人の間で広がった友好団体『フリーメイソン』の中心人物だったからと考えれば、すべての説明がつく」と2人は言う。
「フリーメイソン」は秘密結社と誤解されるが、当時の米国では滞米期間が長い日本人が、渡米直後の日本人を親子や兄弟姉妹のように助け合う交流団体として活動していた。沢田は在米日系人同士を結び付ける役割を担っていたのではないかという。
「誰かにお金を貸しても領収書など取らなかった。その恩義を感じて、多くの人が帰国後も父に手を貸してくれたのではないか」と智夫。米国に7年間滞在して帰国した後、銀座4丁目角(現在の三愛ビル裏手)に洋服店を開業できたのも、実業家で後に三井信託銀行の初代頭取になった米山梅吉ら在米当時からの親友の応援があったからという。
長年患っていた糖尿病が悪化して1934(昭和9)年に没し、一周忌には友人葬が行われた。この時の写真が智夫の元に残っており、米山や医師の血脇守之助ら親友の姿が見られる。
沢田はその人脈を生かして、九州炭鉱開発や岡山玉島(水島)の埋め立て、軽井沢の大規模開発にもかかわった。その波乱の人生をまとめた書物はなく、沢田家と神奈川県の横須賀市自然・人文博物館に資料が残るのみ。
「『男爵の爵位をやるから』と言われても断り、一介の市井人として人生を全うした。米国の自由主義と平等を学び、人は人として平等で対等であると考え、イデオロギーも宗教も職場や社会の上下関係や身分も超越したところで1人の人間として付き合い、幅広い人脈を築いた。誰にも頭を下げることはなかった」と智夫。
米国の日本人労働者が劣悪な状況で働かされていることを憤り、社会運動家の片山潜とともに労働者の権利運動に一緒に取り組んだのも、そうした考えに基づいていた。片山が33年11月、ロシアのモスクワで亡くなった時、日本にいた沢田は涙を流して親友との永遠の別れを悲しんだ。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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