移民の背景に凶作
本県の海外移民の研究者は元教師の三村達道(大玉村)と梅宮博(福島市、故人)で、2人は共に県北から県中地区の移民を研究、各市町村史の中にも調査内容を記している。
三村、梅宮はともに、1902(明治35)年と05、06年の大凶作が、本県の海外出稼ぎ者を急増させたと指摘する。第1次海外出稼ぎ渡航ブームともいえるこの時期、東北を冷害が襲った。凶作で、農家の二男、三男は新たな土地に出なければならなかった。
三村はさらに「江戸時代は田畑の売買や栽培作物が制限されていたが、明治に入るとこの制限が解かれた。さらに地租改正で税を現金で納めるようになり、借金を重ねる農家が増えた」という。
大玉村では、村内の農地を所有する地主が村外から現れ、村民は小作ばかりとなり困窮した。そこで村長の玉応平次郎は村の施策として海外出稼ぎ移民を奨励したが、当時の大玉村は玉応家と鈴木家の2大勢力の政争が続き、村長の玉応は海外出稼ぎ移民という革新的な施策で村経済の立て直しを図ったのではないかという。
さらに、国から設立許可を得て海外渡航をあっせんする移民会社が多数設立される。三村によると、海外出稼ぎ者が増えたため、大玉村では村の予算よりも多額の金が送られてくるようになった。
為替差益はふくれあがり、大正初年で大山村(現大玉村大山)出身者の352人から3万円の送金があった。明治後半の日本の海外貿易収支は1位が生糸、2位が茶、そして3位が海外移民からの送金で、凶作でダメージを受けて疲弊した村経済を立て直したのは、出稼ぎ者から送られてくる外貨だったことが分かるという。
しかし、海外移民は全員が成功したわけではなかった。ハワイやカリフォルニアに行った第1次ブームの人たちは良かったが、アメリカの排日運動が厳しくなった1915年以降の大正から昭和初期には、行き先は南米のペルー、フィリピン、ブラジル、中国、ドミニカなどに変わった。しかしこの第2次移民ブームは太平洋戦争の混乱期と重なり、戦場となったフィリピンでは、亡くなったり行方不明の日本人も多い。昨年10月、日本国籍取得申請でフィリピンから来日したカトウ・ミサコさんも、家族離散の悲劇に遭った1人。三村は「行政の支援があった官約移民に比べ、その後の移民は国内経済が厳しくなる中での『棄民』の意味もあったのでは」と指摘する。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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