波涛の向こうにTOP
◇6◇   【07 2/25掲載】
村長・玉応平次郎
村長・玉応平次郎
村民を選抜して海外に送り出した玉応平次郎
第2部
初期渡米の人々
選抜した村民渡航/移民会社通じ出稼ぎ目的

 1894(明治27)年に官約移民が終了すると、民間企業が移民を海外にあっせんするようになった。これを官約移民に対し「私約移民」「会社移民」と呼ぶ。国内でも沖縄、鹿児島、広島、山口、熊本などで積極的に移民会社が事業を行った。

 本県にも熊本移民会社が福島市に支店(支部)を設け、信達地方(主に現在の県北地区)を中心に盛んに移民を募集した。

 県立図書館に移民会社の記録が残る。「熊本移民会社福島県支部設置届」(出版者不明、1902・明治35年)。支部の設置申請者は「福島県信夫郡福島町大字福島字栄町24番地 安瀬敬蔵」で、02年11月に当時の外務大臣で男爵の小村寿太郎から業務代理許可が出された。

 熊本移民会社県支部が設置されたことを知り、行政の施策として「海外渡航移民」を打ち出した政治家が、当時、安達郡玉井村(現大玉村)村長を務めていた玉応平次郎。玉井村は極めてユニークな施策を講じた。

 玉井村をはじめとして、東北各地は凶作が続き、村々が貧しさの中にあった1893年4月、29歳の若さで村長になった玉応は、村の凶作と貧困対策に頭を悩ませていた。ある家からは「何者かに盗みに入られた」と相談を受け、別の家からは「家族が賭け事に熱中して困る」という訴えが寄せられた。玉応は、五穀やまき、炭などで現金の代わりに納税できる「代用品納税制」を導入したが、それでもなお税の滞納が目に余った。

 そんなあるとき、玉応のところに「熊本移民会社が福島町に支店開設」という情報が飛び込んできた。玉応は優秀な村民を選抜し出稼ぎのために海外に送り、海外から村へ仕送りをしてもらうことを思い付く。

 「加州と福島県人」(佐藤一水)によると、玉応は熱心に村民を口説き落として多数の応募者を募り、その中から「勤勉力行、品行方正なる13名を選抜し、旅費なき者には旅費を貸し付け、または借入などの保証にも起ち」盛大に選抜者を送りだした。村の第1回移民は99年、行き先はハワイだった。

 続く第2回は1901年。玉応は何を思ったか、今度は賭け事にはまった村の「ならず者」ばかりを選んで送り出した。しかし、第1回渡航者同様に渡航費の貸し付けなどをして、村の代表として懸命に働く使命を与えた。

 その後も毎年のように村民を選抜しては送り出し、定期的に村に残る家族や子どもたちの様子を連絡してやったため、出稼ぎ渡航した村民らは責任を感じて一生懸命まじめに働いたという。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)  
 


個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN