財政再建に移民策/村長職を10年、波瀾の人生
村民を出稼ぎ移民として海外に送り出した玉応平次郎は、波瀾(はらん)万丈の人生を送った。大玉村在住の玉応の孫孝郎は「私が幼いころ、刻みたばこの箱の中から小銭を出して、小遣いをくれた」と祖父17)年に小学校の訓導(教師)となり、88年には田村郡新舘簡易小校長兼訓導となり、子どもたちの教育に当たった。
ところが92年、村の財政は窮乏を極める。
当時の村長鈴木治兵衛は、厳しい財政と貧困を極める村民生活を立て直すことができず、玉応、大和田宗順、佐原太蔵、伊藤豊丸、玉応丈吉、国分文六、朝倉弥惣吉ら鈴木に対抗する派閥「玉井村民党」「玉井村同志会」を中心に、村長解職請求運動(リコール)が起きた。「大玉村史」には、反村長組織の結成は自由民権運動の流れをくむものであっただろうと記されている。
鈴木が村長職を離れた後の93年、玉応が村長となり、1904(明治37)年まで約10年間務めた。この時期は、184年の日清戦争、1902年の日露戦争ぼっ発で村民が徴兵されて働き手が不足したほか、02年から05年にかけて凶作が続き、村財政の立て直しが最大の政治課題だった。
02年の安達郡の「窮民調査票」(「県凶荒誌」)では、「凶作ニ起因シ 饑餓(きが)ニ迫ルルモノ」が178人いると記されており、村民生活や村経済を立て直すことは、玉応の政治家としての一大事だったのは間違いない。
玉応は村長を退いた後も、郡会議員、県議に次々と当選、政治家として活動した。
移民史研究家の三村達道は「新しいものを取り入れようという気風があり、移民の仕送りで村財政の立て直しに期待したのだろう」と指摘する。
孝郎によると、明治後期、自宅には自由民権運動家が出入りしていたという。現在、玉応家には河野広中の書も残っており、進取の気性は自由民権運動の思想に通じるものがあったのかもしれない。
ある時、孝郎らが家を掃除していると、タンスの中から玉応の書が出てきた。「和気満堂貧中有楽」(貧しい中にあっても和気に満ちている)。厳しい状況の中で、「奇策」ともいえる海外出稼ぎ渡航を打ち出した玉応の前向きな姿勢がうかがえる。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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