南加県人会の前進/「福島屋旅館」に集い談議
須賀川町(現須賀川市)の北町から南カリフォルニアに渡った沢田竹吉は沢田半之助の弟で、兄や同町出身の三浦篤次郎を頼って渡った。1895(明治28)年、北米大陸に向かう船には竹吉とともに、同じ町内出身の山辺末吉の姿もあった。山辺も、3年前にアメリカに渡った兄山辺半二郎を追って船に乗った。
竹吉はその後、南カリフォルニアのロサンゼルスに移り、新潟県出身の山口正治が経営する邦字新聞「羅府新報社」に勤める。1902年に同社に勤めていた本県人は、斎藤義直、佐藤省吾(いずれも出身地不明)と竹吉。竹吉は記者と事務員を兼ねていた。当時の新聞社は社員数が少なく、互いに複数の職種を兼務、協力し合いながら仕事をしていたらしい。「極めて同県人の少なかった当時、この3人は同郷人というので常に相会しては肝胆相照していた」(佐藤一水「加州と福島県人」)。
05年、本宮町出身の原瀬範三郎(本名・半三郎)が西海岸北部のシアトルからロサンゼルスに移って同社に入社。同郷のよしみで、毎晩のように飲んだり食べたりするようになった。
この時、竹吉や原瀬らが集まっていた場所に「福島屋旅館」がある。同旅館は、渡米した日本人が長期にわたって安価で滞在できる下宿屋と食堂を兼ねた宿泊施設で、「ボーディング・ハウス」と呼ばれた。
「南カリフォルニア在住のふるさとを同じくする人々にとって唯一の憩いの場であり、共通のズーズー弁でおらが国を語り合う親睦の場でもあった」(「南加県人会創立85周年」)という。渡米したばかりの本県人がカリフォルニアにつくった「もう一つの福島」だった。
「南加州日本人史」「加州と福島県人」によると、1898年、愛知県の水野仙次郎が日本人初の旅館「サンタフェ・ボーディング」を開業、後に「水野旅館」と称した。1910年、別の所に「福島屋旅館」を経営していた会津本郷町(現会津美里町)出身の植村勝次(勝治)が同旅館を買収、「福島屋旅館本館」として営業した。植村はダンスホール建設、加州国際石油会社、アメリカン・エキスプレス代理店などさまざまな事業を興し、失敗することもあった。しかし妻秀子が、起業の原点の福島屋旅館を守り抜き、再起できたという。
原瀬や沢田らが飲み食いをして語り合う中で、県人会設立の話が盛り上がり、05、06年ごろ、「福島県人倶楽部」が誕生した。同倶楽部は、今年創立100周年を迎える南カリフォルニア福島県人会の前身。発起人は竹吉と原瀬になっている。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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