邦人互助 機運高く
「加州と福島県人」には、南カリフォルニアのロサンゼルスにある邦字新聞「羅府新報社」で本県人が働いている様子がユーモラスな表現で紹介されている。
「羅府新報社の同人は9人であったが、うち5人までが同県人(=福島県人)であるので、少しでも不平があるとたちまち結束してボイコットを断行した。これにはさすがの山口社長も閉口し、辞を卑うして(=言葉遣いを丁寧にして)この連中にはご機嫌を取っていたものだという」
日刊紙の羅府新報は全米最古の邦字紙で、現在も全米最多の4万5000部を発行している。日本語と英語の両方のニュースが掲載されている新聞で、全米各地の購読者に毎日郵送されている。
須賀川出身の沢田竹吉とともに「福島県人倶楽部」を立ち上げた本宮出身の原瀬範三郎(半三郎)は、1906(明治39)年に羅府新報社から独立して事業を起こした。ロサンゼルス東一街322番地に「南加印刷所」を設立、月刊誌「南加新報」の発行を始めた。これは後に日刊紙「毎日新聞」となり、原瀬や沢田ら本県人は、ロサンゼルスの日系人社会では有名人になったという。
同年4月、北カリフォルニアで衝撃的な出来事が起きる。大震災がサンフランシスコ一帯を襲い、被災した人々は次々とロサンゼルスに移ってきた。大災害の後だけに、本県人はじめ日本人の間では「日本人同士、同郷人同士で助け合おう」という機運が高まった。
同時に07年ごろには、約3万8000人のハワイ日本人移民が米国本土に移ってきた。このハワイからの移動はその後禁止され、また日本政府がハワイから米国本土に移ることを制限した日米紳士協定も締結された。背景には排日の動きがあり、日系移民は厳しい状況に直面した。
ところが、福島県人倶楽部の会員は増加をたどった。08年8月1日、原瀬を会長、宗像重吉を副会長とした「南カリフォルニア(南加)福島県人会」が会員38人で発足した。宗像が経営する大和ホテルで午後2時から発起人の顔合わせ会を開き、同6時に場所を移して発会式を開催した。
役員選任で、理事に原瀬、副理事に宗像、会計に鈴木猪三郎と沢田、書記に若松松之助がそれぞれ就いた。常議員は渡辺小太郎、渡辺惣太郎、武田吉次、武藤庄之助、野地庄次郎、国分辰吉、佐藤儀作。
その後も会員は少しずつ増えた。日本人の移民を制限する排他的な法律「排日移民法」が実施される24年までに、会員は発足時の9倍近い283人までに増えた。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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