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◇10◇   【07 3/2掲載】
初代会長の原瀬範三郎
本宮町から米西海岸に渡った原瀬範三郎。目が大きく「目玉の原瀬」と呼ばれた(「加州と福島県人」より)左は小沼貞雄
第2部
初期渡米の人々
波乱に満ちた生涯/内村鑑三の紹介で北米へ

 南カリフォルニア(南加)福島県人会の初代会長となった原瀬範三郎(本名・半三郎)の生涯もまた、波乱と不思議に満ちている。

 範三郎は1880(明治13)年3月17日、二本松藩から永代名字帯刀を許された本宮町の旧家・原瀬家の六代万右衛門定賢の二男として、本宮町(現本宮市)に生まれた。実家は呉服や生糸、真綿、繭、小間物を扱う店で、資産家だった(山口哲典著「内村鑑三先生と原瀬半次郎」)。

 しかし10歳のころ、阿武隈川の大洪水で店は大損害を被り、長期休業に追い込まれる。原瀬家が経済的に苦しくなったその時、三春町の河野広中を中心とする自由民権運動の風が県南を中心に吹き荒れ、政治に関心を持つ若者が増えた。
  
 しかし、4歳年上の兄半次郎は経済的、社会的に激動の時代にあって、若者の間で盛り上がる自由民権運動には同調せず、平和と心の改革を信仰に求めた。

 「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志を抱け)」の言葉で知られるクラーク博士の薫陶を受けたキリスト信者で、非戦論を唱える内村鑑三の教えに傾倒し、「本宮青年同志会」を結成。範三郎と与四郎、与五郎という弟3人を信仰の道へと導いた。1904年1月に内村が原瀬家を訪れると、師弟のきずなはさらに固く結ばれた。

 ところが弟の範三郎はそのころ、とんでもない状態に陥っていた。範三郎のおいの浦井篤治(大玉村)によると、金銭トラブルに巻き込まれていたという。そこで範三郎は、内村の紹介で米西海岸に渡ることを決意。1年後の05年7月4日の米独立記念日、範三郎は北米西海岸北部のシアトルに上陸、9月には南部のロサンゼルスに落ち着いた。到着直後の生活は、あまり分かっていない。

 「羅府の名男に数へられ、破産商品取引業といふ奇天烈(きてれつ)なる看板を掲げたと思へば、その次年においてはコムマーシャルアーチストとして『油絵・肖像・意匠図案等の需要に応ず』とさつさと看板を塗り替へてしまふ。全く我が原瀬範三郎氏の在米奮闘史は、秋の夜長に相応はしい読物となるであらう」(「加州と福島県人」)。とにかく目立った存在で、目がぱっちりして大きかったことから、「目玉の原瀬」と呼ばれた。

 原瀬家の親族、本宮町の小沼貞雄は「原瀬家はみな目が大きかった。『目玉の原瀬』とは、私も聞いたことがある。懐かしい」とほほえむ。浦井も「とにかく美男子だった」と思い出を語る。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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