事業興し米で死去
1934(昭和9)年、原瀬範三郎はひょっこりと故郷の本宮町に姿を現した。兄の半次郎はその15年前に本宮銀行頭取に就任したが6年前に引退、娘の嫁ぎ先の山口酒造店の経営再建に努めていた。範三郎の帰郷当時、小沼貞雄も、親族の浦井篤治もまだ子どもで、2人ともモーニングにしまのズボン姿の範三郎を見て「ずいぶんハイカラな人だなあ」と思ったという。
浦井ら親族は帰国した範三郎を歓迎、慰労のため二本松の岳温泉安達屋に泊まった。すると範三郎は「ドイツの技師と一緒にネオンサインをつくって売っている。各家庭に電話も車もある」などと米国生活を語った。当時の福島には、ネオンサインも、電話も車も、数えるほどしかなく、一家に1台ずつ車がある米国の豊かな暮らしぶりに驚いたという。
範三郎はさらに信じられない話を続けた。「皇室の賀陽宮(かやのみや)様が病気で、治療のために帰ってきた。医療器具としても使える『HH光線』を開発し、治療に使った。今は海軍の計らいで『HH光線』を殺人光線として戦争で使えないか開発している」と打ち明け、宮様から賜った御紋入りのたばこを見せた。「HH光線」とは、原瀬範三郎のイニシャル「H.H」から名付けたという。親族は突拍子もない話に、ただただビックリするだけだった。
「加州と福島県人」には、範三郎が「白人資本家と共にニーオン・サイン会社を起こした」との記述がある。
浦井によると、その後の範三郎は、太平洋戦争の開戦前に須賀川出身の妻と長男とともに帰国。戦後は英語が堪能でGHQに勤めたという話もある。戦後、1人で本宮を訪れたことがあったが、日本語はあまり話せなくなっていたという。再渡米して現地で亡くなったというが、その後の足取りは親族の間でも分かっていない。
内村鑑三の教えに従って、本宮の家を守り、再建した長男半次郎。一方、渡米して事業を興し、本県出身者の親睦(しんぼく)会の県人会を発足させ、アメリカで没した二男範三郎。兄弟の生涯はまるで「静と動」、そして太平洋を挟んで日米に分かれた。
浦井の自宅には、内村が半次郎に贈った聖書や書簡が現在も残っている。聖書は古くはなったものの、各ページの文字はルビもはっきりと読める。半次郎と範三郎が20代の青春時代に手にしたこの聖書は、激動の時代の記憶をとどめる貴重な史料として、子孫に引き継がれている。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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