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◇12◇   【07 3/4掲載】
沢田竹吉
ハイカラな洋服姿でポーズを取る米国滞在当時の沢田竹吉(沢田家提供)。左下は竹吉をみとった沢田卓二
第2部
初期渡米の人々
県人会のリーダー/戦後は須賀川に帰り隠居

 本宮町出身の原瀬範三郎とともに、福島県人倶楽部、南カリフォルニア福島県人会を設立した須賀川町出身の沢田竹吉は戦後帰国し、故郷に戻って約1年後に75歳の生涯を閉じた。

 帰国後、竹吉の身の回りの世話をした1人で、最後をみとった竹吉の兄の半之助の孫沢田卓二(須賀川市)は「長い米国生活で、なかなか日本の風習になじめないようだった。しかし大らかで、細かいことは気にしない性格。私たちは『竹おじさん』『竹おんつぁ』と呼んでいた」と振り返る。

 現在、親族の間に伝わる米国での竹吉の様子、また「加州と福島県人」(佐藤一水)に残る記録は次のようなものだ。

 1895(明治28)年に23歳でカリフォルニア州サンフランシスコに船で上陸、米国人の家庭で家事手伝いをしながら英語を学んだ。98年に同州南部のロサンゼルスに移り、原瀬範三郎らと知り合う。「沢田は白人薬舗に勤めてゐるので懐ろ具合が良く、いつも彼は会計の役を勤めさせられたという」(「加州と福島県人」)

 1914(大正3)年には、友人らと「マウント・ハリウード花店」「ホワイト・ビジョン・フロラル」を開店させた。

 卓二によると「第2次世界大戦中は、ほかのカリフォルニアの日系人とともに収容所で過ごしたようだ」という。米国からみれば「敵国外国人」であり、苦労して築いた財産は、戦後は何も残っていなかったと伝えられている。

 竹吉が、渡米前から連絡を取っていた故郷須賀川市の親族は、ごく限られた人々だったようで、竹吉が戦後に70歳を過ぎて帰国した当時、竹吉のことを知っている親族は少なかった。安積中の学生だった卓二は、それまで家族から竹吉のことを全く聞いておらず、米国に滞在していた親族がいたことに驚いたという。

 竹吉は米国で結婚したが、子どもはなく、帰国時は妻を亡くして単身だった。ハイカラな雰囲気で、米国人のようにおなかの部分が太く、サスペンダーの付いたズボンをはいていたという。大量のたばこや粉せっけんなど、なかなか手に入らなかったものを米国から持ち帰り、のんびりとパイプをくゆらせていた。隠居生活を送っていたが、帰国後約1年で体調を崩す。

 「病気で寝ている時に、突然寝言で『カム・ヒア・レッドクロス』と英語で言ったりした」と卓二。米国滞在当時は、南カリフォルニア福島県人会の中心的リーダーとして多数の仲間と活動していた竹吉だが、晩年はやや寂しい様子だった。しかし、面倒見の良い親族が時々訪ねて来ては、話をして慰めたという。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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