キリスト教徒支援/芳賀家5代目甚七、立役者
1900(明治33)年前後から20年代の明治から大正にかけてハワイやブラジル、米国本土に渡った本県人のうち、信夫郡(福島市西部)と県北の伊達郡出身者の中には、キリスト教信者の手で設立された「日本力行会(りっこうかい)伊達支部」の支援で渡った人が多い。本県にはキリスト教関係者の渡米ルートがあった。
日本力行会伊達支部が設立されたのは05年11月。経緯は「日本基督教団福島伊達教会百年史」(同教会百年史編集委員会)や「農村教会の歩み 日本基督教団福島伊達教会六十五年史」(遠藤修司著)に記されている。
同支部発足のきっかけは、県北・伊達地方にキリスト教が入ってきたことから始まる。伊達の旧中瀬村の名主宍戸義八郎が1875年、伝道師ライトを2年間自宅に滞在させたことが、この地での最初のキリスト教伝道だった。ちなみに俳優の宍戸錠は、宍戸義八郎の子孫。
その後、宍戸の影響で長岡村(現伊達市)の芳賀家の4代目甚七(伊之作)が、85年に鐸木(すずき)三郎兵衛とともに宣教師フルベッキ、植村正久らを受け入れ、飯坂で初めて「基督教大講演会」を開催。88年にも、仙台神学校(現東北学院大)の夏季学徒伝道生島貫兵太夫を受け入れるなど盛んに伝道が行われた。
4代目甚七は長岡村長や初代県議を歴任、政治や社会情勢に明るかった。家業の養蚕業と生糸の輸出に絡んで何度も横浜に出掛け、海外の空気や英語に触れていた。
子孫で7代目に当たる伊達市在住の敬夫は「自由民権運動にも関心が高く、警察に連れて行かれたこともあったようだ」という。自由民権運動の研究者高橋哲夫は著書「福島民権家列伝」で、甚七の自宅蚕室で81年、民権家による政談演説会が開かれ、河野広中らが訪れたことを詳しくまとめている。82年ごろには、長男守之助(のちの5代目甚七)を自由党に入党させた(「福島町史」)。
4代目甚七らの尽力のもと、91年12月には「信達日本基督教会」が設立された。同教会は現在の「日本基督教団福島伊達教会」(伊達市)。
後を継いだ5代目甚七(守之助)は84年に上海に留学。しかし留学先の職員が学資を持ち逃げし、1年2カ月後に資金不足で帰国した。87、88年に2度、札幌農学校を受験するが失敗、90年に東京専門学校で学ぶ。その後、帰郷して洗礼を受け、故郷の発展に尽くす。この5代目甚七が、海外への渡航移民をあっせんした「日本力行会伊達支部」設立の立役者となった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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