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◇15◇   【07 3/8掲載】
日本力行会伊達支部(下)
記念写真に納まる5代目甚七(後列左から4人目)。その斜め右下でつえを持っているのは4代目甚七=芳賀家提供。左下は、伊達町の日本力行会伊達支部による出稼ぎ渡航の歴史を語る宍戸
第2部
初期渡米の人々
「海外出稼ぎ」推進/農村問題着眼し地方組織

 芳賀家の5代目甚七(守之助)が帰国して10年以上が過ぎた1905(明治38)年。東北全域を襲った凶作は、伊達地区の農家も貧しい生活に追い込んだ。伊達の長岡村(現伊達市)の全戸数337戸のうち、「現ニ生活ニ困窮ナルモノ」129戸、「他ノ援助ニ依リ生活スルモノ」101戸となっており、実に7割近い世帯が貧しさにあえいでいた(伊達町史、伊達郡統計書など)。

 村長を務めた4代目甚七らはこの苦境を打開しようと、養蚕農家の知識をもとに「凶作記念桑園」の開墾を発案。今で言う土木工事で桑園を開発し、養蚕業も盛んにしようとした。

 さらに5代目甚七は同年11月、かつて学生伝道で伊達に滞在したことのある東京神田教会牧師島貫兵太夫の慰問伝道を受け入れ、島貫と対策を話し合った。

 島貫は、1898年に海外に移民を送る団体「日本力行会」を都内に設立して海外移民を進めようとしていた。会の名称は「苦学力業」から名付けた。農家の二男、三男の出稼ぎ先や農村の人口問題に着目した5代目甚七とは、海外に農村青年を送ることで意気投合。2人を中心に1906年2月、国内唯一の日本力行会の地方組織「伊達支部」が設立された。

 「日本基督教団伊達教会百年史」の編さんと執筆に当たった1人の宍戸昭五(伊達市)は「明治38、39年の凶作で、農家の二男、三男は家を離れて出稼ぎに出なければならなかった。海外伝道を背景にして、彼らを海外に送ったのが力行会」という。

 同支部の事務局は、5代目甚七の自宅に置かれた。大きな会合では、甚七の蚕室に400人もの若者が集まって、熱心に講演を聴いたという。教会の牧師から旅券の裏書きがもらえれば、比較的スムーズに渡米できたため、海外に行きたい一心で入会費を借金してまで入会した人もいたという。

 海外に渡った力行会の会員は「スクール・ボーイ」と呼ばれ、教会で英語を学ぶ傍ら、白人の家で皿洗いや家事手伝いをして日銭を稼いだ。昼間は農場で働き、夜はレストランの皿洗い。閉店後に店で食事をして帰るという生活。働き盛りの男性で日本に妻子を残した単身赴任者が多く、実質的に「海外出稼ぎ者」だった。

 「ハワイや北米西海岸で一生懸命働き、日本に送金した人がいた一方で、堕落した人もいた。キリスト教の集まりを開いて生活を立て直すよう、再教育の機会も設けられた」と宍戸。海外出稼ぎ渡航の光と影が見える。(敬称略)
 =第2部おわり。第3部は5月上旬から連載予定。

(報道部・藍原寛子)
 


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