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◇1◇   【07 5/14掲載】
外国渡航記念燈
福島市荒井の八幡神社にある赤れんがの外国渡航記念燈。左下は、佐藤さん
第3部
排日激化と本県人

歴史伝えるシンボル/人生の語り部に生きがい

 1900(明治33)年から36(昭和11)年ごろまでは海外への移民が盛んな時期だったが、同時に、日本人の急増に危機感を抱いた人々が日本人を激しく排斥(排日)した時期でもあった。日本国内の凶作や経済的な苦境から、新天地を目指して北米へ渡った人々を待ち受けていたのはまた新たな苦難だった。北米カリフォルニア州では、日本人一世は「帰化不能の外国人」と呼ばれ、差別を受けた。だが、困難に直面しながらも人々は、着実に生活の基盤を築いていった。

 
福島市荒井の八幡神社に、赤れんがの一風変わった記念燈が建っている。燈の一番上は灯籠(とうろう)になっており、中央正面には「外国渡航記念燈」の文字。この地区を中心とした市西部から海外に渡航した多数の人々の名前を刻んだ焼き瓦やタイルがはめ込まれている。

 記された渡航先は「北米加州(カリフォルニア州)」「布哇(ハワイ)」「オアフ島」「英領カナダ」、東南アジアは「米領フィリッピン」、太平洋の島「仏領マカテア島」「仏領ニューカレドニア」、南米は「ブラジル」「ペルー」まで実にさまざま。本県だけでなく、広島や熊本、愛媛など全国各県出身者の名も記されている。

 時折、歴史愛好者や地域学習の小、中学生が訪れては足を止めたり、ウオーキング大会ではチェックポイントになることがある。そんなとき、八幡神社のすぐ隣に住む佐藤コトは記念燈の前に立ち、建立のいきさつや海外渡航移民の歴史を語って聞かせる。

 現在84歳のコトの最初の夫兵吾は45年に硫黄島で戦死。その後、亡き夫の弟馨(かおる)と再婚し長い間、農家の嫁として養蚕や野菜作りに精を出した。

 今から20年ほど前、福島3中の生徒がコトのもとを訪ねてきた。「記念燈について聞かせてほしい」という。中学生が訪ねて来てくれたことがうれしかった一方で、「農作業をしながら毎日毎日、燈を眺めてきたが何も知らない。次に聞かれたらちゃんと説明したい」と、たった1人で燈のことを調べ始めた。

 すると、同地区からハワイに渡った移民の佐藤伊六とその息子虎次郎の親子が中心となって建立の費用を募り、地区の人々も赤れんがの調達などに協力した経緯が判明。伊六と虎次郎はコトが嫁いだ佐藤家の分家の出で、コトの実父高橋嘉蔵も一時ハワイに出稼ぎし、その間に伊六と会っていたことも分かった。

 「もっと知りたい」。海外へ行ったことのないコトだったが90年ごろ、同地区の住民が企画したハワイツアーに参加。事前に虎次郎に手紙を書いて面談の約束を取り付け、本人から建立のいきさつを聞いた。

 当時、虎次郎は90歳近かったが元気で記憶も鮮明だった。話によると、燈には17年3月15日の日付が刻まれているが、実際の建立時期は15年。荒井からハワイに渡った伊六や高橋新三郎が建立計画を立て、ハワイの荒井出身者から寄付を募ったという。まだ荒井にいた虎次郎や佐藤孫治ら地元の人々も協力、860円が集まった。虎次郎は17年、父に呼び寄せられてハワイに渡り、20年にハワイの福島県人会創立の発起人となるなど社会活動に尽力。73年に勲六等瑞宝章を受けた。95年に94歳でその生涯を終えた。

 「生きている限り皆さんのお役に立ちたい。記念燈と海外に渡った人のことを伝えるのは私の生きがい」。コトは、移民物語の語り部として海外へ渡った人々の人生を次世代に伝え続けている。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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