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◇5◇   【07 5/19掲載】
排斥運動との戦い(上)
菅野修二、万喜の結婚写真(1923年撮影)
第3部
排日激化と本県人
 米国カリフォルニア州オレンジ郡の「ビバリーヒルズ」と呼ばれる高級住宅街に、両親が旧信夫郡(現福島市)出身の日系二世で、米国本土では日系人初の市長、同州ファウンテンバレー市長となったジェームス(ジム)・カンノ(日本名は菅野仁)が妻フランセスと引退後の静かな生活を送っている。カンノは昨年、同州ロサンゼルスで開かれた日系人の祭り「二世週日本祭」で、活躍した日系人をたたえる「パイオニア賞」に選ばれ、現在は日系人の苦難を語り継ぐ活動をしている。カンノの両親は本県からの移民で、写真結婚が禁止されようとするなか、日本で見合い結婚した。

 穏やかな日差しが差す部屋で、カンノは排日や差別を経験した亡き父修二と母万喜(まき)の困難について語り始めた。

 「なんだったげがなあ。そう、一時帰国したオヤジとママは日本で出会って、そんどきに一目ぼれして結婚したんだ」。福島に一度来ただけのカンノの口から飛び出したのは、福島のズーズー弁だった。学校や家の外では英語で話していたが、家の中での両親との会話は終始、福島弁だった。両親の口伝えで福島弁を覚えたカンノの中に、100年以上前の両親の福島弁が今も息づいていた。

 一家の物語は父修二が1905(明治38)年、単身で米国サンタナ州に渡ったことから始まる。このころに渡米した日本人は、日本で専門の資格や技術、知識があっても就ける仕事は農業ぐらい。修二もほかの日本人同様に農業を始めた。

 写真結婚が禁止されるという話を聞いた修二は、23年ごろにいったん帰郷。信夫郡佐倉村出身の万喜と日本で結婚し、再び米国に渡った。

 万喜は83年、オレンジ郡歴史文化研究会と日系アメリカ人委員会、カリフォルニア州立大などによる「オーラルヒストリープログラム」で、自らの体験を語っている。そのインタビュー内容は1冊の本として同大などに残されている。

 この中で万喜は、24年の排日移民法により、北米大陸の日本人独身男性は、ハワイ生まれかアメリカ生まれで市民権(アメリカ国籍)がある女性としか結婚できなくなったことなどを説明。「うちのカンノ(修二)がようやく日本に帰ってきたのは、その規則(が成立)になる前の終わり(最後の年)なの。ここ(アメリカ)では、たくさん(移民を)入れないように、入れないようにと考えているのだから―」と移民制限の様子を語っている。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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