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◇6◇   【07 5/20掲載】
排斥運動との戦い(下)
カリフォルニア州の自宅でくつろぐジム(左)と妻フランセス=昨年10月
第3部
排日激化と本県人
 
 1923(大正12)年に福島で結婚した菅野修二は、妻万喜を連れて渡米、カリフォルニア州のサンタナでドイツ系アメリカ人から土地を借りて農業を始めた。24年に長男ジョージ、翌25年に二男ジェームス(ジム)が誕生した。

 37年にサンタナから、近くのファウンテンバレーに子どもの名義で土地を買って移り、アスパラガスなどの農作物の栽培を始めた。当時この地は広大な湿地帯で、排水設備などはなされていなかった。そこで修二は、農地を開拓するために水路を造り、大規模なかんがい事業を行った。土地を改良して取り組んだホシトウガラシやサトウダイコン、ホウレンソウ、キャベツなどの栽培は次々と大成功を収めた。

 農作物の栽培のほか、農地で働く人々のマネジャーとして労働者の労務管理も行い、日系人の間で「サンタナの農業のパイオニア」と尊敬される存在になった。

 二世の2人の息子は、月曜日から金曜日までは現地の学校へ、土曜日は日本人の子どもばかりの日本語学校の両方に通い、米国の教育だけでなく、日本語や日本文化についても学んだ。地元の学校に通わせれば、習得の早い子どもは何不自由なく英語を話すようになるが、その一方で日本語はほとんど話せなくなってしまう。

 親世代は日本語の会話が中心なため、親子の交流をスムーズにいかせるためには二世の日本語学習は欠かせない。日本人のために米国社会では差別や排斥を受けるが、カンノ一家をはじめとする日本人の多くが、熱心にわが子に日本語や日本の文化を教えた。

 母の万喜は生前、「私は日本のブック(本)を読んで聞かせた。日本の『小学1年』とか、日本の雑誌、子どもの雑誌だとか」と語っている。ジムが今でも日本語、福島弁を話すのはこうした教育熱心な両親に育てられたためだ。

 その後、ジムはサンタナの高校に入学。全校生徒1500人の大きな学校の中で、日本人は5人と完全な「少数派」だったが、自然になじみ友達ができた。そのころ、戦争の雲行きが怪しくなった。「パパは、いつか近く戦争が起きると予想していた。私たちは、ただアメリカに住んでいるだけで、そして日本人というだけで差別を受けた。これからどうなるのだろうと不安に感じた」とジム。

 当時の思い出は、暗く重いものなのだろうか。ジムはそれ以上「差別」について語ろうとはしなかった。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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