排日の激化は、留学生として渡米した人たちにも暗い影を落とした。猪苗代町出身の橋本昌彦もその1人。昌彦は1906(明治39)年に東京高等師範を卒業し長野県上田中学校に赴任、教師として英語を指導した。
「加州と福島県人」(佐藤一水著)には「22歳の少壮(若い)教諭は全国においてもあまり多くの類例を見ぬこととて、氏の将来はおおいに教育界の注目の的となったものである」と記されている。
13年、教師として将来を嘱望されていた昌彦は突然、海外留学という名目で単身渡米する。しかし、現実は厳しかった。シアトル経由でカリフォルニア州に入ったものの、排日は激しく、英語教師としての語学力や知識、経験を生かせるような仕事には就けなかった。
そこで昌彦は同州ハリウッド・シエラビスタで植木業(ナーサリー)を開業した。この仕事を選んだのには理由がある。当時のカリフォルニアでは排日運動が激しく、日本人の土地所有が難しくなりつつあった。このため、土地を借りながら農業を営んでいた日本人は次々と農地を離れ、はさみ1本、草刈り機1台という少ない初期投資で仕事が始められ、現金収入がある造園業(ガーデナー)に転身していった。カリフォルニア州で日本人ガーデナーが増え、植木の需要が高まった点に注目したのだった。この事業は大当たりした。昌彦は父景二、七郎、重郎、末彦の3人の弟を次々と猪苗代から呼び寄せ、21年ごろには兄弟4人が協力して事業を拡大した。
七郎の長男で、昌彦のおいの橋本陽太郎が現在、米国カリフォルニア州ウエストロサンゼルスのソーテルで暮らし、父や叔父の代から続く植木店「ハシモト・ナーサリー」を営む。陽太郎の姉七代、妹千美恵も一緒で、同店はソーテル地区では最も大きな植木店として繁盛している。3人によると、猪苗代の橋本家は当時、借金を抱えており返済のため兄弟4人が渡米、助け合って働いたという。
生活も落ち着いてきたころ、昌彦は相馬市中村生まれの留学生吉田道子と結婚する。道子の父は牧師の吉田亀太郎。亀太郎は、福島・保原で初めてキリスト教を伝道した人で、「日本力行会」や伊達市の日本基督教団福島伊達教会と縁のある人。
27年、兄弟は「OKナーサリー」の店舗を構えた。故郷への送金だけでなく、「将来は東京の田園調布に家を構えたい」という壮大な夢に向かって精を出して働いた。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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