波涛の向こうにTOP
◇7◇   【07 5/22掲載】
橋本家(上)
ロサンゼルスの橋本兄弟。(前列左から)昌彦、道子(後列左から)末彦、七郎、重郎
第3部
排日激化と本県人
 排日の激化は、留学生として渡米した人たちにも暗い影を落とした。猪苗代町出身の橋本昌彦もその1人。昌彦は1906(明治39)年に東京高等師範を卒業し長野県上田中学校に赴任、教師として英語を指導した。

 「加州と福島県人」(佐藤一水著)には「22歳の少壮(若い)教諭は全国においてもあまり多くの類例を見ぬこととて、氏の将来はおおいに教育界の注目の的となったものである」と記されている。

 13年、教師として将来を嘱望されていた昌彦は突然、海外留学という名目で単身渡米する。しかし、現実は厳しかった。シアトル経由でカリフォルニア州に入ったものの、排日は激しく、英語教師としての語学力や知識、経験を生かせるような仕事には就けなかった。

 そこで昌彦は同州ハリウッド・シエラビスタで植木業(ナーサリー)を開業した。この仕事を選んだのには理由がある。当時のカリフォルニアでは排日運動が激しく、日本人の土地所有が難しくなりつつあった。このため、土地を借りながら農業を営んでいた日本人は次々と農地を離れ、はさみ1本、草刈り機1台という少ない初期投資で仕事が始められ、現金収入がある造園業(ガーデナー)に転身していった。カリフォルニア州で日本人ガーデナーが増え、植木の需要が高まった点に注目したのだった。この事業は大当たりした。昌彦は父景二、七郎、重郎、末彦の3人の弟を次々と猪苗代から呼び寄せ、21年ごろには兄弟4人が協力して事業を拡大した。

 七郎の長男で、昌彦のおいの橋本陽太郎が現在、米国カリフォルニア州ウエストロサンゼルスのソーテルで暮らし、父や叔父の代から続く植木店「ハシモト・ナーサリー」を営む。陽太郎の姉七代、妹千美恵も一緒で、同店はソーテル地区では最も大きな植木店として繁盛している。3人によると、猪苗代の橋本家は当時、借金を抱えており返済のため兄弟4人が渡米、助け合って働いたという。

 生活も落ち着いてきたころ、昌彦は相馬市中村生まれの留学生吉田道子と結婚する。道子の父は牧師の吉田亀太郎。亀太郎は、福島・保原で初めてキリスト教を伝道した人で、「日本力行会」や伊達市の日本基督教団福島伊達教会と縁のある人。

 27年、兄弟は「OKナーサリー」の店舗を構えた。故郷への送金だけでなく、「将来は東京の田園調布に家を構えたい」という壮大な夢に向かって精を出して働いた。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN