猪苗代町から米カリフォルニア州に渡った橋本昌彦をはじめとする橋本四兄弟が営む植木業(ナーサリー)は、順調に業績を伸ばしていった。
昌彦の弟七郎は1936(昭和11)年1月19日、ウエストロサンゼルスのソーテルにあるビルチモアホテルで、兄昌彦の妻道子の姪(めい)ます子と結婚する。当時の豪華な挙式の模様が、現地の邦字新聞「羅府新報」に次のように報道されている。
「華燭の典 橋本七郎君と吉田ます子嬢
去る19日午後5時よりホテルビルチモアにおいて結婚式を擧げた橋本君は当地の園藝開拓者昌彦氏の令弟で、吉田嬢は婦人會長として令名ある昌彦夫人すなわち道子女史の愛姪で之れ程のお芽出度ひ事は無からう。河野牧師の司式により荘嚴に結ばれ、2階に降りて披露宴は開かれたが近來にない盛大さであつた」
ウエディングドレスのます子と、モーニングを着た七郎を中心に、大広間にコの字形のテーブルが並び、盛装の70人の招待客の姿が1枚の写真に残されている。2人の結婚式は、新聞でも取り上げられるほど盛大で、現地の日系人の関心を集めた。
40年、長男昌彦と二男七郎はともに日本に帰国する。兄弟が力を合わせて働いた結果、まとまったお金をつくることができ、「田園調布に家を建てる」という夢を実現する時がきたからだった。帰国した2人は早速、都内の一等地、田園調布に家を建てた。
しかし、弟2人、重郎と末彦はカリフォルニアにとどまった。これには理由があった。
そのころの日本は、37年の盧溝橋事件に始まり、日中戦争開戦、その後も国家総動員法やノモンハン事件など戦時色が深まっていった時期で、40年には日独伊三国軍事同盟が成立した。同時に、日米関係が微妙になってきた時期だった。
そこで昌彦や妻道子、七郎らカリフォルニアの橋本一家は重要な決断をする。「万一日米が開戦することになったら、日本と米国は敵同士。戦争は、最後には決着がつき、どちらかが勝ち、どちらかが敗れる。家族が一方の国に一緒にいるよりも、日米に別れて暮らすことで、橋本家を残すことができる」
家を残すために、仲の良い兄弟が日米に別れて暮らす。重い決断だったが、兄弟が協力し合い、異国の地で事業を興して発展させてきただけに、家の存続に対する気持ちは一致していた。4人の兄弟は国境を隔てて2人ずつに別れた。政治情勢や日米関係は、次第に暗さを増していった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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