米カリフォルニア州の日系スーパー「マルカイ」の精米売り場。店のマネジャーで南カリフォルニア県人会長の妻星節子と顧問の小山信吉は「国府田農場のコメは人気で、新米は売り切れてしまう」と、そのおいしさを語る。今や全米の日本人の食卓を支え、日本食ブームの中心となったカリフォルニア米。戦前から生産に尽力し「ライスキング」と呼ばれたのが国府田敬三郎(いわき市小川町出身)。
国府田は、排日と差別が最も激しい時期に渡米、困難と立ち向かいながら努力を重ね、米国で「ライスキング」と尊敬される存在になった。「アメリカン・ドリーム」を体現した代表的な日本人の1人といえる。
国府田は1882(明治15)年、父吉定、母トセの三男として旧赤井村(現いわき市小川町)に生まれた。一家の長男は新太郎、二男は国吉、四男は栄、長女シゲ、二女サイ。国府田が生まれた当時から現在まで、実家は精米業、米穀販売業を営んでいる。父吉定が磐城平藩の武士生活から離れて別の家業を始める際に、小玉川ほとりの水車小屋で精米業を営んだことに始まっており、国府田は生まれながらにしてコメに縁のある人生を歩んでいる。
いわき市小川町の国府田のおい英二は長年、国府田の研究を続けている。1988年には「国府田敬三郎とアメリカの米づくり」を著し、国府田の人柄や生涯を伝えている。英二は国府田の帰国のたびに会っており、「白人に負けない立派な体格。性格もはっきりした大人物だった」と懐かしそうに語る。
国府田は1888年ごろに赤井村第2尋常高等小学校(現小玉小)を卒業、その後、平(現いわき市平)の磐城高等小学校(現磐城高)を卒業した。
国府田が12、3歳のころ、人生の転機ともいえる大きな出会いがある。磐城高等小学校を卒業した国府田は、進学をあきらめ地元の豪農佐藤甚右衛門のところに手伝いに行っていた。神田の貿易商「十文字商会」を経営する十文字信介が、狩猟で佐藤のもとに時々立ち寄ることがあった。商用で米国に渡ることの多い十文字から、現地の人々の暮らしや経済、考え方などを聞かされるうちに、国府田はアメリカへの夢や希望を抱き始めた。十文字は、自分の会社が発行した立志伝中の人の物語「米國富豪傳」(ガーター・ホートン著、千石華洲翻訳)を国府田に贈る。英二によると、国府田は渡米後にこの本をなくしてしまったという。著名な発明家や実業家の成功談に感心した国府田は、一層アメリカにあこがれを抱くようになり、この本との出会いが国府田の人生を変えたと英二はいう。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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