1冊の本「米國富豪傳」に強く触発された14、5歳の国府田敬三郎は、渡米を決意した。ある日、大胆な行動に出る。
1896(明治29)年、いつものように「手伝いに行く」と言って家を出、常磐線の線路沿いを歩いて東京を目指した。後においの国府田英二(いわき市)が国府田から聞いた話では、郵便局から引き出した貯金五円80銭を持ち、夜中に自分で作った大きな握り飯5つを風呂敷に包んで、普段着のままでの上京だった。
松戸から汽車に乗って上野まで行き、神田の十文字商会を訪ねた。十文字商会は、国府田に渡米を決意させるきっかけをつくった十文字信介が経営する貿易会社。店に着くと十文字の妻が出てきて「英語やほかのことを勉強してから渡米すべき」と諭したという。結局、この時は渡米を断念せざるを得なかった。
しかし、完全に渡米をあきらめたわけではなかった。上級学校に進んで英語やその他の知識を深めてから渡米しようと決意、地元の教師のアドバイスで予備校「学半塾」で学び、その後、福島師範学校簡易科に入学した。
1902年、19歳で同科卒業後、旧三阪村(現いわき市)の村立差塩(さいそ)尋常小学校(現いわき市差塩小)の教師として赴任した。その後、同校長兼務となった。約5年間、同校長職を務めた後の08年、ついに渡米する。
この年の1月、磐中卒業後に都内の英語学校「正則学校」で英語を学んでいた弟の栄が先駆けて渡米し3カ月後の4月、その後を追って国府田がサンフランシスコに渡った。
このころの北米西海岸は、まさに排日運動が高まりをみせていた時期だった。「米国西北部 日本移民史 上」(竹内幸次郎著)によると、1886年のサンフランシスコの中国人排斥運動が日本人排斥まで広がり、95年のペスト流行に至っては「東洋人特有の病気」と流布され、日本人と中国人が攻撃されたという。
国府田が渡米する2年前の1906年、サンフランシスコ教育委員会は「東洋人学童排斥案」を成立させ、日本人の子どもは東洋人の「隔離学校」に通うこととなった。07、08年には労働目的の移民が紳士協定で禁止され、渡航者は日本からの家族呼び寄せが難しくなった。
自由の国アメリカを夢見て渡米した国府田は教育者だったが、日本人の子どもたちが隔離学校に通学しなければならず、自由に教育を受けられない現実をどのように受け止めたのだろうか。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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