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◇11◇   【07 5/26掲載】
ライスキング・国府田敬三郎(3)
ライスキング・国府田敬三郎(3)
国府田敬三郎(前列中央)と弟の栄(同右端)ら
第3部
排日激化と本県人

 後にライスキングと称される国府田敬三郎が渡米したのは、排日運動が激しい1908(明治41)年だった。この年の4月、国府田は現職校長のまま、「米国の教育視察」という名目で貨客船「加賀丸」で米西海岸のサンフランシスコへ渡った。

 渡米後は、先に渡っていた弟の栄とともに北カリフォルニアの農園でタマネギやイチゴ、ジャガイモ、サトウダイコン栽培の重労働に就き、新しい事業を興すために蓄財に努めた。当時、日本で学校長を務めていた国府田だったが、アジア人、日本人が就ける職業は農業や漁業など限られていた。

 激化する排日運動に対して、日本政府が抗議したにもかかわらず、13年にはヒラム・ジョンソン・カリフォルニア州知事が「外国人土地法」に署名。これによって「排日土地法」も成立、日本人を含むアジア系移民は「帰化不能外国人」とされて米国籍取得や市民権取得などの帰化ができなくなったうえ、土地所有も禁止された。

 当時、北カリフォルニアパロアルト日本人会の会計だった国府田は、法案が可決されないよう資金調達に奔走、阻止運動を起こした。しかし、法案は可決。最初に渡米した日本人一世は、どんなに働いて貯蓄があっても、米国で生まれた二世名義でなければ農地を得ることはできず、土地を所有して安定した農業を続けていこうと考えていた日本人は大きな打撃を受けた。土地を所有したい人は、わが子の名義で農地を購入するしかなく、人々は苦肉の策で困難を乗り越えようとした。

 翌14年、国府田は南カリフォルニアの漁業の有望性に注目して、サンピードロ港で「北米鮪(まぐろ)缶詰」という会社を設立した。岩手県出身の遠山則善が社長、国府田は副社長に就任した。

 当時、同港には漁船ごと北米に移民してきた和歌山県人が多く、日本漁船39隻が会社に所属していた。ところが同年、第1次世界大戦が始まり、創業3年で米国人の会社に売却。共同経営していた野菜果物の缶詰工場も売り払った。

 国府田は、あっさりと会社を売り払った理由の1つに「白人の同業者から政治的(排日)迫害が次第次第に強くなり、缶の供給が円滑にゆかなくなった」(国府田英二著「国府田敬三郎とアメリカの米づくり」)ことを挙げている。排日の動きが国府田のビジネスにも大きな影を落としていた。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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