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◇12◇   【07 5/27掲載】
ライスキング・国府田敬三郎(4)
戦後、国府田敬三郎の農場を訪れて直播の大規模農業を視察してきたおいの英二
第3部
排日激化と本県人

  排日運動の激化で日本に帰る人が現れるなか、国府田敬三郎は、渡米した日本人が互いに助け合ってこの困難を乗り切るべきと考え、同郷人の結束を強くするため南カリフォルニア(南加)県人会の活動に力を入れる。国府田は19197(大正6)年1月から3年間、県人会の会長を務め、県人のリーダーとして会員の増加や交流活動を推進した。

 しかし年々、排日運動は強くなった。20年には、より厳しい外国人土地法が可決。国府田は「日本人の農業経営禁止となるに及んで、氏は翌年米国東南諸州及び玖馬(キューバ)、メキシコ等を視察して、邦人の州外発展地を探究すると同時に母国窮民の海外発展を調査」(佐藤一水著「加州と福島県人」)したという。しかし同法も可決した。

 22年にはアメリカ最高裁で日本人の帰化権を争う「オザワ訴訟」の判決が下され、日本人移民の帰化権が拒絶された。アメリカで腰を落ち着けて生きていこうと考えている日本人にとって、ますます環境は厳しくなっていった。

 排日の動きもあって缶詰会社を売り払った国府田だが、長年抱いた夢をあきらめたわけではなかった。むしろその夢にまっすぐに向かっていたのかもしれない。その夢とは、米国の広大な土地に日本のコメを作って、富豪になることだった。

 2つの会社を売り払った資金を元手として、北カリフォルニアのサクラメント北部に20年、約1800エーカー(1500エーカーの説あり)の土地を借りてコメ作りを始めた。しかし長期の大雨の影響で稲はほぼ全滅。「幾くもなくして芽が立ち育ち豊かなる穂が恵まれた、氏が毎夜の夢には成金の王冠が輝いてゐたのは勿論である。而して氏の最後の理想たる植民地建設が遠からず実現し得ることを確信してゐた。然るに天は無情だった。氏の期待はすつかり裏切られたのである。(中略)米価大暴落の為め大失敗となり、破産に瀕してしまった」(「加州と福島県人」)

 しかし、国府田はあきらめず日本人に雇われてコメ作りに従事、22年には資金を得た。親しいユダヤ人の精米業者の投資も受け、ドス・パロスで広大な米作地を借用してコメ作りを拡大した。29年には、世界で初めて飛行機による水田への種まき「直播(ちょくは)」を行った。収穫も良いと評判を呼び、ほかの農場も取り入れるようになった。おいの国府田英二(いわき市)は戦後、現地を訪れて大規模農業を視察している。

 農業経営が順調に進んできた一方で、政治、社会情勢は戦争に向けて暗さを増していた。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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