ライスキングと呼ばれた国府田敬三郎も会長を務めた南カリフォルニア(南加)県人会。第2部でも紹介したように、1908(明治41)年にロサンゼルスで原瀬範三郎を初代会長に発足した。「県人会が会員に対して奉仕してきたものは、ほとんど皆、犠牲的な記録でないものはないのである」(同県人会の記録より)
排日の動きが激しくなった20年ごろの県人会の最重要事業は、本県出身者に対して土地を購入する際の保証権利など、各種証明書を発行することだった。同会は、会員ではない本県出身者に対しても、会員同様に保証権を発行した。
また、日本から国会議員が訪米した際には会員がこぞって歓迎した。同会の記録では13年に堀切善兵衛衆院議員、15年に海軍大将出羽重遠と栗山博衆院議員が訪れ、歓迎祝賀会が開かれた。08年から28年までの20年間は、帝国練習艦隊や練習船大成丸がたびたびカリフォルニアのサンピードロ港に寄港。同会はこの間、そのほかの日系人会と協力して歓迎行事を続けた。
同会の記録では、09年の伊地知、10年八代、14年黒井、17年常磐と八雲、18年磐手、浅間、春日、19年八雲、22年谷口、25年百竹、27年長野の各戦艦が寄港した。17年に戦艦八雲がサンピードロ港に入港した際には本県人乗組員が多かったため、当時の県人会長国府田敬三郎や役員の荒肇、菅野富吉らが準備を進め、自家用車を持っていた長谷川定二、植村勝次、後藤弥作、菅野らが車を運転して市内観光を楽しんだ(佐藤一水著「加州と福島県人」)。
元会長で同会顧問の小山信吉(二本松市出身)は「当時の会員の暮らしは決して楽ではなかった。しかし祖国から艦隊が訪問するということで、精いっぱい歓迎したようだ」という。
県人会の記録では、11年から24年までの約14年間が、戦前、県人会が最も活発に活動した時代であったという。24年から52年まで米国へのアジア人移民は禁止され、県人会が領事館から任された移民保護や保証権も撤回され、各県人会の活動は縮小した。
県人会の会員数は発足直後の08年に38人だったのが、14年に199人と200人に迫り、発足10年の18年には255人、16年目の24年で283人と、発足時の7倍以上に増えた。しかし28年には200人に減少。第2次世界大戦が起きると、県人会の活動は次第に縮小していった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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