波涛の向こうにTOP
◇14◇   【07 5/30掲載】
元県人会長・芳賀功
渡米したころの芳賀功(右)おいの佐藤満(左) 
第3部
排日激化と本県人
 在米県人の支援団体として大きな役割を担った南カリフォルニア(南加)県人会。戦後の1953(昭和28)年に会長を務めた旧伊達町(現伊達市)出身の芳賀功(91年死去)も、排日運動が激しい19年1月に渡米した。

 父健造が08年ごろ、同じ伊達出身の親族田中三郎を追って渡米。功は当時8歳で、母マキとともに日本に残った。

 田中三郎は在米中、イリノイ写真学校で写真技術を学び、帰国後は写真館を開業。大正から戦前の昭和にかけての貴重な写真を多数撮影している(「日本基督教団福島伊達教会百年史」より)。

 父健造が渡米してから11年後の19年、功は福島中を卒業しないまま父の後を追って渡米する。サンフランシスコに上陸後、シアトルでおじの山田忠三郎の仕事を手伝った。3年後の22年にはロサンゼルスで切り花店を開業した。

 功はサンパナディノ郡日本人会幹事に就任、県人だけでなく渡米した日本人の交流を深める活動に尽力した。それだけではなく、日本で関東大震災が起きたと聞くと、米国赤十字社や救世軍支部などと連絡を取り合いながら、日本の被災者支援の募金活動を展開した。

 戦前の40年、功は渡米から22年ぶりに家族を連れて一時帰国している。この時は、ロサンゼルスの南カリフォルニア県人会の役員として、若松と飯坂の陸軍病院慰問も兼ねての帰国だった。ロサンゼルスの本県人から寄せられた缶詰やタオル、金属製の洗濯板など食料品や日用品のほか、子どもたちには鉛筆やクレヨン、ノートなどの学用品を持参した。

 当時小学2年生だったおいの佐藤満(福島市瀬上町)は「まるで凱旋(がいせん)帰国だった」と当時を振り返る。

 「親せき全員にお土産を持ってきてくれたが、日本では珍しいものばかり。私へのお土産は革靴だった」。功がこの時、日本の家族への土産として持参した米国製の草削りを満は今も使っている。

 満は「あのころは子どもだったこともあり、苦労したとか差別を受けたということは(功から)聞いていない」としながらも、「向こうでは、電車の乗り口も白人とは違うというようなことを聞いた」という。

 戦前に米国で成功し、日本人のリーダーとしてカリフォルニアで活動していた功だったが、第2次世界大戦の日米開戦により、大変な苦労を体験することになる。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN