旧二本松町(現二本松市)出身の国際政治学者の朝河貫一も、米国で活躍した移民のパイオニアの1人。
1873(明治6)年に旧二本松藩士朝河正澄の長男として生まれ、95年に渡米。ダートマス大とエール大で研究を重ね、「入来文書」の研究を発表。1902年に博士号を取得した。41年に日米開戦の危機が高まると、開戦回避のため、米大統領から昭和天皇にあてた親書の草案も書いたが結局、試みは失敗した。
朝河が館長を務めたエール大の東アジア図書館には、朝河の論文や写真、手紙など多数の資料が収められている。朝河と妻ミリアンの結婚を報じた新聞記事もある。07年9月17日付の新聞「ボストン・デイリー・グローブ」紙で、「YANKEE GIRL MARRIES JAP(白人女性が日本人と結婚)」の大見出しで小見出しは「東洋人教授が縫製師を射止めた」。朝河のことを、差別的に使われることが多い言葉「JAP(ジャップ)」と表現している。
現在、同図書館長で朝河顕彰活動の中心であるエレン・ハモンドは「このような記事は知らなかった」と驚く。「『ジャップ』は差別語に取れるが、日本人と白人の結婚が珍しく、少数派だった朝河の立場を象徴したのかもしれない。現在は、このような表現はあり得ない」と語る。
結婚当時、朝河は米国初の日本人大学教授として知られており、記事は業績も紹介しつつ東洋人と白人の国際結婚に焦点を当てる。「彼女(ミリアン)の兄弟マードッグは、結婚を聞いて驚いたが、外国人の義理の兄弟を歓迎する準備はできている」とある。
しかしハモンドは「朝河が、エール大の中で差別されたとは考えられない。素晴らしい業績で尊敬された。その証拠に、第2次世界大戦中も朝河はエール大で教壇に立った。エール大が朝河を守った」と言う。
明治維新以降、同大は日本人留学生を受け入れており、会津藩出身で後に東大総長となる山川健次郎(大山捨松の兄)も1872年から75年まで学んだ。97年には日本で「エール日本同窓会」が結成されている。
朝河は70歳で定年退職するまで30数年間、教壇に立った。1909年に著した「日本の禍機」では、移民と排日についても触れ、日米の移民問題を冷静に分析している。(敬称略)
=第3部おわり。第4部は8月上旬から連載予定。
(報道部・藍原寛子)
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