家財や農具手放す/築いた生活ほとんど無に
単身で渡米して野菜作りをしていた松本卯平治(安達郡大平村、現二本松市大平出身)を追って、息子の松本弘司ら一家が再渡米して父を手伝うようになると、カリフォルニア州での農業経営は格段に安定した。ところがこの時、まさに「青天のへきれき」ともいえる深刻な出来事が起きる。
1941(昭和16)年12月8日(米国時間12月7日)、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し日米開戦へと突入した。米国の敵国である枢軸国の中心となる日本、イタリア、ドイツのリーダー格の人々は一斉に拘束された。
真珠湾攻撃による日系人への弾圧は特に強く、「日系アメリカ人の歴史」(全米日系人博物館刊)や「ジャパニーズ・アメリカンズ・イン・ザ・サクラメント・リージョン」(サクラメント日系アメリカ市民協会刊)によると、拘束された日系人は1291人(ハワイ在住367人、米本土924人)、危険人物としてFBI(米国連邦捜査局)に逮捕された人は736人で、その後2191人に上った。その一方で、ドイツ系の逮捕者は1393人、イタリア系は264人と日系人よりも少なかった。
翌42年になると排日運動はさらに強まり、ルーズベルト大統領は日系人の強制立ち退きと収容を命じる「大統領命令9066号」に署名した。
日系人の勤勉さと強い連帯、偏見も相まって、太平洋を挟んで相対する日本の攻撃を恐れたのが理由と言われ、米西海岸に在住していた10万人から12万人の日系人が立ち退きを命じられ、強制収容された。
米国、イギリス、フランスなどの「連合国」と戦う「枢軸国」の日本、イタリア、ドイツなどのうち、米国が強制収容したのは日系人だけで、ドイツ系、イタリア系に対しては行わなかった。さらに強制収容された日系人の60%は、米国で生まれて米国籍(=市民権)を持つ「日系米国人」だった。
松本一家は手広く農業を営んでいたため、多くの家財道具や農具、そして車を所有していた。しかし強制収容所には、限られた身の回り品しか持って行くことは許されなかったため、農具や家財道具は二束三文で売った。車は白人に預かってもらったが、いつ返却してもらえるかは分からない。家族が血のにじむような努力をして働いて手に入れた財産も、米国で築き上げた生活も、戦争のためにほとんど無になってしまった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
|