高堀に衛兵の監視/隠れて酒つくる「猛者」も
米国に建設された日系人の強制収容所は、ツールレイク、マンザナー(カリフォルニア州)、ポストン、ヒラ・リバー(アリゾナ州)、トパーズ(ユタ州)、アマーチ(コロラド州)、ミニドカ(アイダホ州)、ハート・マウンテン(ワイオミング州)、ジェローム、ローウアー(アーカンソー州)など。
帰米2世の松本弘司(福島市飯坂町出身)一家が移ったのは、カリフォルニア州の内陸部、砂漠地帯にあるマンザナーだった。シェラネバダ山脈のホイットニー山を背景に、広大な収容所の敷地が確保され、バラックが何棟も立ち並んでいた。「バラックは細い木の柱と薄い壁ででき、秋から冬になると、山から吹き下ろしの風が吹き、雪も降って寒かった」と松本は当時を振り返る。
米政府は強制収容所を「リロケーション・センター」「ウォー・リロケーション」「リロケーション・キャンプ」(転住センター、戦時下転住地)と表現するが、収容された日系人は「キャンプ」(強制収容所)と呼ぶ。松本によると、敷地の周囲には高い塀とバラ線が張られ、常時、衛兵が監視していた。転住センターではなく、やはり強制収容所だった。
1942(昭和17)年4月以降、バラックのような建物が完成し、建物が増えるのと同時に強制収容される日系人も増えていった。1棟あたり15、6人ぐらいが家族単位で入居し、共同生活を始めた。収容所内には病院や学校、食堂、宗教ごとの教会や集会場も設けられ、人々は敷地内であれば自由に集会に参加することができた。
松本によると、強制収容所に入所して1年近くは食糧事情が非常に悪く、豆料理やパンケーキが中心で、コメは口にできなかった。やがて、さまざまな食料が入り、コメや肉料理なども食べられるようになっていった。食糧事情が改善したことは良かったが、1世など年配者の中には「ここの食糧が良くなったということは、日本の戦況が悪化しているのでは」と、遠い祖国を案じる人もいた。強制収容所の中では、偶然にも県人会の会員同士あるいは顔見知り同士で会うことがあり、そんなときには話をすることもあった。
松本はユニークなエピソードも記憶している。強制収容所内で限られた食料しか手に入らない状況の中でも「猛者」がいて、隠れて酒をつくっていた。「焼酎だけでなく、どぶろくをつくる人もいた。製造法を知っている人がこっそりつくって、強制収容所内の入所者に売っていた」という。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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