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◇6◇   【07 8/11掲載】
詩吟
           書生時代の貞夫
第4部
日米開戦と日系人
 
 強制収容所に響く/本県出身、荒国誠が広める

 米カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のガーデナ市にある、南カリフォルニア福島県人会(南加県人会)元会長で顧問の松本弘司(福島市飯坂町出身)の自宅に詩吟が響く。松本は、国誠流詩吟会のロサンゼルス国誠会所属の師範として、現地で暮らす日系人らに詩吟を教えている。

 「詩を吟じると、すーっと心が静まってくる」と話す松本。戦時中に過ごしたマンザナーの強制収容所で初めて詩吟に触れ、戦後、本格的に研さんを積んで師範となった。「何人かで集まってお茶やお花、大正琴などのクラブができた。その中に詩吟があった」という。

 現在、国誠流詩吟会の本部は東京都にあり、2代目宗家荒国誠(本名・荒真宏)が教えている。海外の支部や教室は、米国のシアトル、ポートランド、ハワイ・ホノルル、ロサンゼルスのほか、ブラジルなど各地にあり、約600人が詩吟を楽しんでいる。海外に支部などがある詩吟の会では最も規模が大きいという。

 国誠流を始めた初代宗家は、相馬郡飯豊村出身の荒国誠(本名・荒貞夫、故人)。貞夫は米国マンザナーとツールレイクの2カ所の強制収容所で戦中を過ごし、収容所の中で詩吟を広めた。

 貞夫が米国で暮らす発端は、父の荒肇がカリフォルニア州に渡ったことがきっかけだった。肇は南加県人会の会長を務めたこともあり、現地の県人の代表として活躍したという。渡米後の1914(大正3)年、肇は当時まだ相馬中生だった貞夫の兄の三男真夫を米国に呼び寄せた。真夫はロサンゼルス郊外の農園で父や本県出身者とともに働いた。真夫に続いて渡米したのが四男の貞夫だった。

 「加州と福島県人」(佐藤一水著)によると、貞夫は15年に上京し、相馬子爵邸に書生として下宿しながら、英語教育で知られる東京正則英語学校に通って英語を学び、17年に渡米した。当時の様子を、貞夫の妻冨美子が本人からの聞き語りとして「荒国誠13回忌記念誌『吟魂』」に記している。それによると、この下宿当時、貞夫は安西秋水という人物から詩吟を学んでいた。それが、後の国誠流詩吟会の設立につながっていく。

 先に米国で農業をしていた肇は19年に帰国。米国に残った2人の兄弟は160エーカー(約65万平方メートル)の広大な土地を借りてメロンやレタス栽培を始めた。ところが、生産過剰や相場変動の影響で事業は厳しくなり、加えて日米関係の悪化と第2次世界大戦、真珠湾攻撃による日米開戦、日系人の強制収容所行きで事実上、農業を断念せざるを得なかった。(敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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