収容所で詩吟指導/各国の日系人が引き継ぐ
真珠湾攻撃による日米開戦などで、農業を断念した旧相馬郡飯豊村出身の荒国誠(本名・貞夫)は、兄の真夫とともにマンザナー強制収容所に送られた。ここで貞夫は、相馬子爵邸時代に身に付けた詩吟を教え始めた。マンザナーは砂と山に囲まれた砂漠地帯。収容所内では楽しみも少なかったため、詩吟教室が開かれると、「習いたい」と生徒が殺到した。
マンザナー強制収容所で貞夫から詩吟を習った羅府国誠詩吟会元理事長の大東国岬は、日本国誠流詩吟連盟の記念誌「吟魂」で、「味気ない無聊(ぶりょう=心配事があって楽しくないこと)の日々を強いられた。そうした生活の中に荒先生(=国誠)が詩吟教室を開かれたと聞くや、我も我もとその門を叩いた。先生に接した多くの人々は、心豊かな人柄に魅せられ、尊敬と信頼の念を抱いた。(中略)詩吟に生き甲斐を感じ、明るさと潤いを得て、会員は日毎に増えていった」と書いている。
「加州と福島県人」(佐藤一水)では、貞夫のことが次のように記されている。「真に美声の持ち主で民謡、浪花節、琵琶唄往くとして佳なるざるはなしである。殊に薩摩琵琶の玲瓏(れいろう)さはその撥(ばち)のさばきの巧妙と相俟(ま)って人を魅了するものがある。堅忍不抜、而かも円満なる性格の持ち主である」。琵琶は書生時代に覚えたという。
収容所で詩吟が大ブームになったからか、貞夫は収容所内でマークされ、「注意人物」が隔離されるツールレイク強制収容所に移されてしまった。しかし貞夫はくじけることはなく、ここでも詩吟を教え始めた。
戦争が終わり、強制収容所で暮らした日系人たちは住み慣れた土地へ帰っていった。無一文から生活を立ち上げる苦労の日々が続いたが、人々は詩吟を捨てはしなかった。詩吟や漢詩、日本語に触れたいという声が各地で起こり、次々と国誠流の教室が発足した。
1981(昭和56)年12月、貞夫がこの世を去った。享年82。92年5月、羅府国誠詩吟会はロサンゼルスで創立50周年記念祝賀詩吟大会を開催、多くの弟子たちが平和な世に高らかに詩を吟じた。
現在、教室は米国のサンフランシスコ、バークレー、サンノゼ、シアトル、ポートランド、ラスベガス、ロサンゼルス、ホノルルのほか、カナダのデンバー、バンクーバー、モントリオール、トロント、ブラジル・サンパウロにまで広がった。弾圧にも負けずに2カ所の強制収容所で詩吟を教えた貞夫の不屈の精神は、各国の日系人に引き継がれている。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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