収容所で詩吟指導/各国の日系人が引き継ぐ
日本人排斥(排日)の激化と、第2次世界大戦中の真珠湾攻撃による日米開戦とともに、日本人や日系人は米国内の強制収容所に移動させられた。その一方で、米国での生活を断念して日本に帰った人もいた。
その中の1人が、戦前にロサンゼルスで貿易商をしていた糠沢(ぬかざわ)仙吉(旧本宮町、現本宮市出身)だ。1886(明治19)年2月、本宮に生まれ、旧制安積中に進学。ここで先輩で、後に世界的歴史学者として知られるエール大教授の朝河貫一の伝説に触れる。それは「朝河は英語の辞書を毎日1ページずつ記憶し、覚えるごとに破り、残った表紙を校庭の桜の木の下に埋めた」というものだった。
この伝説に触発された仙吉は、土、日曜日や夏休みなど授業のない日を利用して、宮城県南部の菖蒲田海岸にある教会に通って英語を学んだという。
仙吉の父仙助(仙助兼重から改名)は、明治時代の一級多額納税者で、後に本宮銀行頭取を務め、一家は経済的には豊かな生活を送っていた。しかし本宮市在住の仙吉の四男隆雄(福島学院大監事)は「父は朝河博士の影響で、経済的にゆとりのある生活の中でも『自分の力を試したい』と思ったのかもしれない」という。
仙吉は20歳になった1906年5月、知り合いの何人かとともに渡米した。シカゴやイリノイ州でホテルボーイや皿洗いをしながら苦学しビジネススクールを卒業。その後、ロサンゼルスで貿易業に従事するようになった。
12年、15年、32年と3度帰国。故郷に帰っている間は「インディアン」という当時ハイカラなオートバイを乗り回していたという。13年には棚倉町の町長を務めた宗田利助の六女ユウと結婚。その後、日米での単身赴任生活を経て30年5月、家族をロサンゼルスに呼び寄せた。
しかし昭和10年代に入ると、排日運動がますます激しくなり、日米関係にも不穏な雰囲気が漂ってきた。仙吉が友人と営んでいた貿易業も思うようにはできなくなり、アメリカに残るか、日本に帰るか選択を迫られた。仙吉は、家族とともに帰国する道を選んだ。36年のことだった。
生後半年で母や姉2人と米国へ移った隆雄は、帰国当時は7歳。船で横浜に着いたその日、2・26事件が起こり、船内に留め置かれたことを記憶している。「日本に着いたあのとき、生まれて初めて雪を見た。戒厳令のため船の中で過ごさざるを得ず、27日に上陸したのを覚えている」と回想する。一家は親族の陸軍少将のもとに身を寄せたが、隆雄は子ども心にも、政治情勢は穏やかではないと感じ取っていた。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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