長男の戦死に悲嘆/激動の日々 日記に残す
1936(昭和11)年2月に帰国し、神奈川の陸軍少将の家に身を寄せた本宮出身の糠沢仙吉一家は、数カ月を本宮で過ごした後で横浜に居を構え、戦中の44年ごろから再び本宮に疎開した。
日本軍の真珠湾攻撃で日米開戦に突入すると、「父は『ばかなことをやっている』と憤っていた」と、仙吉の四男隆雄(本宮市在住)は振り返る。
やがて戦争の悲劇は糠沢家にも降り注いだ。長男正雄が応召、44年に南方マリアナ方面で戦死した。30歳だった。
仙吉は、最も頼りにしていた正雄を亡くし悲嘆にくれた。「息子の敵討ちをする」と日本陸軍に入り、通訳としてサイゴン(現・ホーチミン)やラングーン(現・ヤンゴン)に赴いた。既に60歳近くになっていた。
戦争は日本の敗戦で終わり、「敵討ち」はかなわなかった。サイゴンから日本への引き揚げ船の中で、仙吉は偶然、福島弁を話す同郷の人と出会い、敗戦と正雄の戦死の悔しさをぶつけた。その人は、福島師範を出て、南方で日本語を教えるために外地に赴いていた教師遠藤伝だった。
遠藤は後に歌集「南十字星」で、この時の仙吉の様子を次のように詠んでいる。
「君の骨持ち帰らむといひ交はす 糠沢仙吉 矍鑠(かくしゃく)として」
「子の仇(かたき)を打つまで死なずと豪語せり 六十路に入りし 糠沢仙吉」
仙吉は戦後、英会話に堪能なところを見込まれて、GHQ(連合国軍総司令部)の福島軍政府に勤務した。「兄を亡くした悔しさはあっただろうが、強くアメリカを敵対視する意識はなかったのでは」と隆雄は当時の仙吉の気持ちを代弁する。
仙吉は54年11月、胃がんを患い、本宮町の自宅で死去した。68歳だった。死後、米国滞在中の出来事を詳細に記した日記が残された。今、激動の日々を残そうと、息子たちの手によって日記をワープロで書き起こす作業が進められている。
戦後、育て上げた子どもたちの多くが、国際関係や教育に縁のある人生を送っている。三男哲夫は米国大使館勤務、三女美恵(故人)と五女知恵(同)はハワイの日系人と結婚し、日本語学校を経営したり、ハワイ教育会理事を務めた。
七男和夫は経団連専務理事、ハンガリー大使、外務省文化交流部長を歴任。日米両国の人材交流事業フルブライト事業のメンバー・フルブライターとしても、国際経済の研究と国際交流に貢献した。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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