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◇12◇   【07 8/18掲載】
終戦と県人会
1948年、ロサンゼルスで開催された福島倶楽部の金婚敬老祝賀会
第4部
日米開戦と日系人
 
 復興の中 活動再開/二世、三世による新時代へ
 
 1945(昭和20)年、日本は敗れ、長かった戦争は終わりを告げた。松本弘司(福島市飯坂町出身)もマンザナの強制収容所を出て、住み慣れた米カリフォルニア州ロサンゼルスに戻ってきた。強制収容所に入る前、松本は地元の白人に車を預けていた。ロサンゼルスに戻ると、その白人は車を返してくれた。「親切な人で、きちんと返してくれて、ほっとした」と松本は当時を振り返る。

 南カリフォルニア福島県人会(南加県人会)顧問の小山信吉によると「預けていた家財道具、車など一切が売られたりどこかにいってしまい、財産も仕事もないところから立ち上がった日系人も多かった」という。

 羅府新報記者でロサンゼルス在住の大西良子(東京都出身)は「観光客や渡米したばかりの日本人は、ロサンゼルスのことを『ロス』と言ったりするが、在住者はそうは言わない。『ロス』は英語の『失う』『失敗する』という言葉につながって縁起が悪いから」。「ロサンゼルス」、または「LA(エル・エー)」が一般的で、街の呼び方にも、日系人の苦労の歴史がにじむ。

 松本は、強制収容所から戻って1年ぐらい造園業者(ガーデナー)をやった後、父の希望もあって再び農業を始めた。多くの日本人が、農業や造園業から復興の道を歩み始めた。

 戦中は完全に活動を停止した南加県人会だったが戦後、活動を再開した。松本によると、数人が集まって話をするうちに「また活動を再開しよう」ということになったという。戦前から戦中にかけて各県人会のリーダーがFBI(米連邦捜査局)の取り締まりを受けたり、家族とは別の強制収容所に入れられるなどの弾圧を受けた経験から、米当局の弾圧を警戒して会の名称は戦前の「南カリフォルニア(南加)福島県人会」ではなく、「福島倶楽部(クラブ)」とした。

 「南加福島縣人住所録」(南加福島県人会発行)に初会合の記録が残されている。48年4月25日、発起人たちが会合を開き、幹部役員を選出し規約を定めた。初代委員長は坂本儀助。副委員長は大友六助、渡辺常弥、ライスキングとして知られる国府田敬三郎は顧問に就いた。

 弾圧の心配がなくなった51年、名称が「南加県人会」に改められた。ようやく、日系社会に平和な時代が訪れようとしていた。しかしこの時、最も苦労した一世の多くがこの世を去っていた。県人会の活動再開は、二世、三世による新しい時代の始まりを告げていた。(敬称略)

 =第4部おわり。第5部は9月下旬から掲載予定。

(報道部・藍原寛子)
 


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