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◇2◇   【07 9/29掲載】
坂本 儀助(上)
いわき福音協会付属小島記念会館と坂本儀助(同協会提供)
第5部
戦後から現代の日系人
 
 いわきで福祉事業/施設設立、民間では全国初
 
 本県ゆかりのハワイのウクレレ奏者ジェイク・シマブクロの曽祖母(祖母の母)から祖母の時代に当たる戦後の1950(昭和25)年、民間の手による全国初の福祉施設「いわき福音協会」が設立された。きっかけは、内郷市(現いわき市内郷)出身でカリフォルニアに移民した実業家坂本儀助と、キリスト教の信仰を持ついわきの医師大河内一郎の出会いだった。

 儀助は、内郷で羽二重業を営む坂本勝次郎の長男。日露戦争で打撃を受けた家業の立て直しのため、米国に市場を拡大しようと12年2月に渡米した。現地で雑貨業や庭園業を営み、苦労しながら生活の基盤を築いた。

 父勝次郎はいわき地方で最も早く伝道を始めた平バプテスト教会で最初に洗礼を受けた。儀助の弟で三男の義孝は、磐城中第1回卒業生で、東亜同文書院第1期卒。儀助を追うように24年に渡米し、戦前は南カリフォルニア大やニューヨーク大で学び、博士号を取得した。戦中は上海で国際関係の仕事に従事、戦争否定の平和主義者として知られ、日中友好に尽力した。ところが終戦直後の46年5月、急性肺炎で死去した。

 悲報は教会関係者の間を駆け巡り、大河内ら平キリスト教青年会は「郷土の先覚者をたたえたい」と、49年5月、坂本家の墓前で記念会を開いた。

 記念会開催を知った儀助は非常に感激し、内郷市小島にあった実家の宅地を何かの活動に役立ててもらおうと、寄付を申し出た。儀助は公民館の建設用地として考えていたらしい。

 この申し出は、大河内の中にくすぶっていた情熱に火を付けた。大河内は戦中、軍医として応召、フィリピンのルソン島で捕虜となり米収容所で過ごした。「生きて日本に帰れたら、子どもたちのために生きよう」と決意し捕虜の間、整形外科の専門知識と技術を生かして子どもたちを支える「肢体不自由児施設建設 『風の子 光の子』構想」をノートにしたためた。無事帰国できたが、戦後の厳しい経済下で構想はノートにとどまったままだった。

 儀助の申し出で福祉施設建設構想は一気に具体化した。儀助と親交のあった米国の伝道者ハーバート・ニコルソンが寄付手続きを支援。50年、いわき福音協会の設立後は、51年に小島保育園開園、52年に東北・北海道初の肢体不自由児施設、福島整肢療護園が開設され、全国でも有数の福祉事業がいわきで始まった。 (敬称略)

(報道部・藍原寛子)
 


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