協会支えた支援活動/在米日系人や篤志家が尽力
「大河内(一郎)先生と坂本儀助さんの出会いがなければ、いわき福音協会は発足していなかったかもしれない」と、同協会の歴史に詳しい野の花ホーム所長岡部明は語る。
1950(昭和25)年、全国有数の児童福祉の団体として、整形外科医の大河内一郎が理事長となり設立されたいわき福音協会は、設立後も財政面では楽な状態ではなかった。米国在住の日系人や篤志家たちは戦後、強制収容所から戻って苦しい生活を送りながらも、故郷に貢献しようと同協会の支援を続けた。
海外支援の中心は内郷市(現いわき市内郷)出身で、同協会設立のきっかけをつくった米カリフォルニア州在住の坂本儀助をはじめ、小川町(現いわき市小川町)出身で、ライスキングと称された国府田敬三郎、そして土地寄付の仲介をしたハーバート・ニコルソン。
国府田とニコルソンには共通点がある。2人は、戦後の物不足が深刻な日本に向けて、米国内から物資を送る「ララ物資(Licenced Agencies for Relief in Asia=LARA)」にともに尽力した。
第2次世界大戦中、赤十字社の協力で、故国日本から強制収容所の日系人のもとにみそやしょうゆ、日本語の書籍など懐かしい品々が届けられた。収容されていた日系人は、日本から届く物資に故郷を思った。
戦後、敗戦国となった日本は物資が極端に不足する事態に陥った。在米日系人は「戦中の恩返し」と、米国から粉ミルクや食料、衣類などを日本に送った。これが「ララ物資」。
ニコルソンは伝道で来日したが、日米開戦で帰国。戦中は日系人の強制収容所の閉鎖を陳情したり、療養所や病院の訪問をするなど日系人を支援した。戦後「健康増進のため日本人にはヤギの乳が必要」と、ヤギを日本に送った。ヤギの乳を飲んだ経験を懐かしく思い出す人もいるだろう。その活動は「やぎのおじさん行状記−キリストの愛の軌跡」(1974年、湖浜馨訳)として出版された。
岡部は「大河内先生、坂本さん、国府田さん、ニコルソン先生と、スケールの大きな方々が、社会福祉という言葉のない時代に出会い、福祉に尽力してくださったことは、今考えても素晴らしいこと」。
ニコルソンや在米日系人の宗派を超えた人々の財政支援で、同協会には63年にチャペルが完成。「友愛記念館」と名付けられ、障害者福祉や互助のシンボルとなった。(敬称略)
(報道部・藍原寛子)
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